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罪悪感について真剣に考えてみました

罪悪感は僕にとって大変に大きいテーマだ。

確か夏目漱石がどこかで
「罪をありのままに記述することがもしできるなら、その罪は許される。
 もちろん、世間的には相変わらず罪ではあっても、
 その人においてその罪は許される。」
というようなことを言っていた。

初めてそれを読んだときには意味がわからなかったが、
最近、あれはこういう意味だったのではないかと思うことがある。

神でも仏でも絶対者でも世界でも世間でも宇宙でも法でも秩序でも、
とにかく自分を越えたものと真正面に向き合うなら
罪はなくなるのではないか―。

罪悪感についてはずっと考えてきた。
罪悪感の中には疚しさや後ろめたさがある。
「気に病まなければならないのではないか」という良心の圧迫感がある。
平然と“他の人”と同じように生きてはいけないのではないかという
疚しさや後ろめたさが出てくる。
自己懲罰的に働く思考体系。それが罪悪感の正体ではないか。

「罪が許される」とはどういうことなのか。
普通「罪が許される」のは、
誰かに「それは罪ではない」と言ってもらったときか、
もしくは「これは罪ではない」と言い得る理屈を自分で見つけられたとき。

いずれにしても、「自分=正しい・間違っていない・真っ当」と
自分を正当化できたときに「気に病む必要はない」と思うことができる。
と思っているから、正当化するための理屈を見つけようとして
一連の思考が開始される。
「罰を受けたのだからもう気に病むことはない」と言い聞かすのもそう。

「良い」と言われると自己懲罰を安心してやめられる。
でもその「良い」に絶対性を感じられないとやめることはできない。
「自分は誤魔化しているだけじゃないか」という思考が湧き出てくるからだ。
とにかく「絶対的なもの」に保証されたという実感がない限り、
罪悪感は消えることはない。
(「絶対性」といっても結局それは主観的な「納得」「理解」だが。)
そういう意味では人間というのは意外と律儀な生き物だ。

罪悪感を抱えた人の思考というのは、
「罪は罪ではない(自分=是)」と結論付けられるものを求めて
自動的に展開される。
求めているのだから、そういうものがあると思い込んでの作業だ。
でもそういうものはないんじゃないかと思う。

「神の許し」という言葉があるが、
おそらくそれは上記のものとは本質的に異なるものだと思う。
神の許しとは
「罪は罪であり、悪である。
 それでもあなたを許しましょう」
というものだと思う。
少なくとも阿弥陀仏というのはそうだと思う。
罪を無かったことにしてくれるのではなく、
罪を犯してしまっても見捨てないということだと思う。

ところで、自分で自分の非を認めることは本質的に不可能だと思う。
アイデンティティというものが基本的に
「自分=是」を基本として形作られているからだ。
罪悪感を抱えている人は「自分=非」というアイデンティティを
持っているように見えるがそうではなく、
「自分=是」というアイデンティティを形作るのが
現状あまり上手くいっていない、が正確な認識だと思う。
その上で「自分=非」という思考に同一化しているのだと思う。

だから、アイデンティティの欠損を埋めるための自己防衛として
「自分=非」を「自分=是」に書き換えるための
理屈付けをする思考や、他者に許しを請い求める行動が開始される。

でも神を真正面から見るなら、自分で自分の非を認めることができる。
「神を真正面から見る」というのはあくまでも感覚的な表現だが。
疚しさや後ろめたさを感じているときは、
神から目を背けているときだと思う。感覚的に。
(別に神でなくて世間や世界でもお天道様でもいい。)

罰せられることによってあちらに愛想をつかされるのではなく、
実はこちらが一方的に目を背けている。
「自分=非」という烙印を押されるのが怖いから。
なぜ怖いかというとアイデンティティの崩壊を予感するから。

罪を犯した人は概してひねくれるが、
それは神(世間)に見捨てられたからではなく、
見捨てられるのが怖いからひねくれるのだと思う。
それが人間の心の仕組みだと思う。例外なく。

何回も言うように自分で自分の非を認めることは本質的にできない。
でも神に自己の非を全て見せようとすることができるなら
それができる。
これが夏目漱石の言いたかったことではないかと思う。
つまり「罪をありのままに記述する」とは
世界に対して、自己防衛から生じる自動思考(妄想)を加えることなく
罪を放り投げることで、
「罪は許される」とは
自己の非を非として認めつつ、それでも自己=是と思えることだと思う。
自己=非だけれども、それが保証されている(自己=是)。


こうして言うと単なる観念論や理想論や精神論のようにも見えてくるが、
長年考えてきてそれなりの実感を持って「こうではないか」と言っている。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/15 17:26
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