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誰かの子としての自分

「親には子どもを育てる義務がある」という。
僕には子どもがいないので、
あくまでも子としての自分の立場から思うことだが、
あまり義務とは言わないほうがいいのではないか。

もちろん、法的な問題が絡んでくると義務と言った方が
都合がいいのだろうけど、
少し「義務」という面が押し出されすぎな気がする。
「個別の家庭」においてはそんなことはあまりないだろうが、
「社会」という文脈で話されるときには、そんな気がする。

とは言っても、「親には子どもを育てる義務はない」
をスローガンにして運動を起こそうとか
決してそういうつもりで言っているのではない。
(むしろ反対。)

子どもとしては、最初から与えられたものとして
「親による養育」を受けているという意識がある。
子どもの内はそういう意識を持つことは決定的に大事だと思うが、
ある程度大きくなると、
実はそれが当たり前でなかったと気付いていく、
というのが“良い成長の過程”だと思う。
個人的な好みだが。

そうすると、あまりギムギム言っていると
そういう気づきを得る機会が減ってしまう。
「受けるのが当然だ」という意識が
社会を通しても根深く刷り込まれる。

「義務でないのに育ててくれた。」
こう思う方が子の感動も大きい。

親といえども血縁関係のあるだけの別の人間。
自分とは別の人生を持っている人。
その人が自分(親)の人生というものの中に
この自分(子)を育てる、というのを入れてくれた。
しかもかなり大きな部分として。

そう思った方がいいのでは。
単純に、当たり前、とするのではなくて、
一旦、当たり前でない、というところを経由して、
その当たり前でないことをしてくれた、
という結論に落ち着く方がいいのではないか。

その方がいいとは言ってもどう思うかはその子ども次第だから、
あまりこんなことを言ってもしょうがないが、
社会の中で、義務と言うのをもう少し減らしてはどうかと思う。
結局根っこにあるのは、
「受ける権利がある」と何に対しても考えてしまう
自己中心的な価値観の問題だと思うが。

(タイトルに「誰か」とあるので、
 僕自身が親が誰なのかわかっていないということだと
 誤解された方があったかもしれませんが、そうではなく、
 「誰か」とした方が「他の人」という感覚が出るので
 そうしました。)
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固定観念を壊す | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/02/01 20:25
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