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『思いにとらわれない』

最近、精神論が多すぎる。
合理精神が進んだ結果だろう。
神には頼れないから。
自力で何とかするしかない、と。

それが精神論であることには当たり前すぎて気が付いていない。
当然「自己責任」が強調されてくる。

神を信じられなくなったのも、
その結果皆が常に不安に怯えることになったのも、
別に退行ではない。順当。

ただ、その次に進まないと、過渡期は苦しい。
進むとしたら『思いにとらわれない』ということだろう。
それは、精神論の破棄。

『思いにとらわれない』ということは既に結構言われている。
“あるがまま”“「しなければならない」と考えるのをやめる”
“本当の感情に従う”などと言われている。
が、それは単なるふんばりで、テクニカルなことに過ぎず、
そしてそれこそが精神論。

“攻める”“ブレない”“あきらめない気持ち”
などの煽るような言葉もそう。

当然、“努力しないのが悪い”
“するもしないも本人次第”という発言も出てくる。
それがあまりにも当たり前だとされているのが寂しい。

『あるがままが大切』。それは間違いない。
ただ、それが本当に大切にされているのかどうか。

そういう機運が高まっているなら、早くその次へ進まないと。
“あるがまま”と力んでふんばらなければならないということ
そのものがある意味で時代の病のように見える。

合理精神を発展させるなら、もっと徹底させていかないと。
肝心な部分を精神論に任せることになる。
“努力”“勇気”“根気”
人間を客観的に見ていくのなら、
そろそろこれらの「聖域」も顧みられなくてはならない。


“あるがまま”という『思い』にとらわれている。

“思いにとらわれてはいけない”を
『思い』でどうにかしようとしている。
そして
“思いにとらわれてはいけない、
を思いでどうにかしないように”と、
『思い』でどうにかしようとすることになる。

これではいたちごっこになる。
いつまで経っても終われない。
心労がかさむだけ。

『思いにとらわれてはいけない』と気付くのは
『理』であって『思い』ではない。

自己暗示のように“とらわれてはいけない”と
心の中で反復させ、言い聞かせなければならないようなものは
『思い』でしかない。
『思い』がやっかいなのだから、
言い聞かせをしている人ほど迷いの森の深みへと入っていく。

受け入れなければならないようなものは『思い』。
“これが理なのだ”、と。
『理』は受け入れるようなものではない。
『理』は心内現象でもあり外部の客観的な事実でもある。
厳密にはそのどちらでもなく、理は理。
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世の中 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/02/11 21:42
コメント
同感です
問題意識を持っているようでいて、
結局のところ、安直な結論に落ち着いてしまっている気がします。

うがった見方かもしれませんし、すべてがそうだとは思いませんが、
「安直な結論に落ち着いている」ことをカモフラージュする技法が、「精神論を語る」ことなんじゃないか、
と思う時もあります。
本人の心がけ次第ですべてが解決する、なんて、
言っても言わなくても同じですよね。
どう心がければ良いか、そう心がけられるようにするにはどうすれば良いのか、
・・・といった肝心のところには触れないまま結論付けられているわけですから。

大抵、こんなことを言うと、
「それは自分で考えろ」という所に落とし込まれてしまうわけですが(苦笑)。
確かに、考えもせずに答えだけを教えてもらいたがる態度はどうかと思いますけど、
自力で考えればすべてわかるのなら、この世界から説明なんて不要ですし。
両極端なんですよね。多くの言説が。
No title
>本人の心がけ次第ですべてが解決する、なんて、
>言っても言わなくても同じですよね。

全く同感です。
結局その人次第、ということですからね。

そこからどうすればいいかという話には進展しないで、そこで終わりますよね。
まさに安直な結論をカモフラージュしているような感じです。

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