傲慢な「自己責任」
「自己責任」と言うと謙虚な感じがする。
「すべて私の責任です」と。
でもそれが本当に「すべて」を指した場合は、
それは謙虚ではなく、傲慢だ。
そもそも人間は
自分の意志で生まれてきたのではない。
その身体を選んだのでもない。
その時代を選んだのでもない。
その場所を選んだのでもない。
その両親を選んだのでもない。
死ぬときも選べない。
死にかたも選べない。
根本的なところで、
人間は絶対的な受動性を抱えている。
このことまでも「私の責任です」と言うなら、
それは謙虚ではなく、傲慢だ。
譲らねばならない部分は譲らねばならない。
分を越えてはならない。
「自己」にすべての責任を負えるものではない。
それにも関わらず自己にしか責任を帰することができないのが
現代人の苦しさだと思う。
「すべて私の責任です」と。
でもそれが本当に「すべて」を指した場合は、
それは謙虚ではなく、傲慢だ。
そもそも人間は
自分の意志で生まれてきたのではない。
その身体を選んだのでもない。
その時代を選んだのでもない。
その場所を選んだのでもない。
その両親を選んだのでもない。
死ぬときも選べない。
死にかたも選べない。
根本的なところで、
人間は絶対的な受動性を抱えている。
このことまでも「私の責任です」と言うなら、
それは謙虚ではなく、傲慢だ。
譲らねばならない部分は譲らねばならない。
分を越えてはならない。
「自己」にすべての責任を負えるものではない。
それにも関わらず自己にしか責任を帰することができないのが
現代人の苦しさだと思う。




「自己責任」という言葉の意味は、さっぱりわからないです。
というか、「責任」というのもよくわからないですよね。
特に、「責任をとる」ということの意味が。
辞任すれば責任をとったことになるのか、
大衆にひれ伏す醜態をさらして「私は駄目な人間でした」と謝罪すれば責任をとったことになるのか、
責任を追及する人が何を要求しているのか、よくわからなくなります。
実際のところ、責任をとってもとらなくても、
その事件によって起きた悪い事態が少しでも早く収束し、良い方向に向かっていけることが重要なのであって、
そのことと、責任をとるかどうかということは基本的に無関係なはずです。
でも、事件を引き起こした中心的な人物が、その前と同じような日々を送っていたら、
傍目に見て納得がいきません。
結局のところ、「責任をとる」ということは、別の尺度から言えば「周囲を納得させる」ということと等価なのではないか、と思えます。
極論かもしれませんが、
周囲を納得させることを徹底してやりぬけば、それが「責任をとった」ことになってしまうのではないか、と。
そうなると、周囲にどう感じる人がいるかによって、責任の取り方が違ってきますよね。
ということで、最初の話に戻りますが、
「自分の責任です」
という言い方には、僕も違和感があります。
で、そのような場合、僕は、
「覚悟してます」
と言ってる気がします。
客観的に、自分の責任なのかもよくわからないけれども、
責められるかもしれないことを含めて主観的に覚悟している、と宣言する。
できるのはせいぜいそれくらいじゃないかと思うんですよね。
たとえ、「覚悟してるから何だ」と言われても、
あくまでも「僕は覚悟してます」という・・・。
何かの儀式のようにも見えますよね。
「辞めろ」と言う方も「辞めます」と言う方も、
その流れの全体が儀式のように感じます。
そうでもしないと社会が成り立たないのかもしれませんが、
違和感はあります。
>で、そのような場合、僕は、
>「覚悟してます」
>と言ってる気がします。
確かに「自分の責任です」と言わないのなら、
そう言うしかないのかもしれませんね。
主体性を手放すか手放さないかというぎりぎりのところで
まこっちゃさんが出された重い答えのような気がします。