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傲慢な「自己責任」

「自己責任」と言うと謙虚な感じがする。
「すべて私の責任です」と。
でもそれが本当に「すべて」を指した場合は、
それは謙虚ではなく、傲慢だ。

そもそも人間は
自分の意志で生まれてきたのではない。
その身体を選んだのでもない。
その時代を選んだのでもない。
その場所を選んだのでもない。
その両親を選んだのでもない。
死ぬときも選べない。
死にかたも選べない。

根本的なところで、
人間は絶対的な受動性を抱えている。
このことまでも「私の責任です」と言うなら、
それは謙虚ではなく、傲慢だ。

譲らねばならない部分は譲らねばならない。
分を越えてはならない。
「自己」にすべての責任を負えるものではない。
それにも関わらず自己にしか責任を帰することができないのが
現代人の苦しさだと思う。
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人間観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/02/13 21:14
コメント
正直・・・
よくよく考えると、
「自己責任」という言葉の意味は、さっぱりわからないです。
というか、「責任」というのもよくわからないですよね。
特に、「責任をとる」ということの意味が。

辞任すれば責任をとったことになるのか、
大衆にひれ伏す醜態をさらして「私は駄目な人間でした」と謝罪すれば責任をとったことになるのか、
責任を追及する人が何を要求しているのか、よくわからなくなります。

実際のところ、責任をとってもとらなくても、
その事件によって起きた悪い事態が少しでも早く収束し、良い方向に向かっていけることが重要なのであって、
そのことと、責任をとるかどうかということは基本的に無関係なはずです。

でも、事件を引き起こした中心的な人物が、その前と同じような日々を送っていたら、
傍目に見て納得がいきません。
結局のところ、「責任をとる」ということは、別の尺度から言えば「周囲を納得させる」ということと等価なのではないか、と思えます。

極論かもしれませんが、
周囲を納得させることを徹底してやりぬけば、それが「責任をとった」ことになってしまうのではないか、と。
そうなると、周囲にどう感じる人がいるかによって、責任の取り方が違ってきますよね。

ということで、最初の話に戻りますが、
「自分の責任です」
という言い方には、僕も違和感があります。
で、そのような場合、僕は、
「覚悟してます」
と言ってる気がします。

客観的に、自分の責任なのかもよくわからないけれども、
責められるかもしれないことを含めて主観的に覚悟している、と宣言する。
できるのはせいぜいそれくらいじゃないかと思うんですよね。
たとえ、「覚悟してるから何だ」と言われても、
あくまでも「僕は覚悟してます」という・・・。
儀式のようです
辞任することで責任をとる、というのは、
何かの儀式のようにも見えますよね。
「辞めろ」と言う方も「辞めます」と言う方も、
その流れの全体が儀式のように感じます。
そうでもしないと社会が成り立たないのかもしれませんが、
違和感はあります。


>で、そのような場合、僕は、
>「覚悟してます」
>と言ってる気がします。

確かに「自分の責任です」と言わないのなら、
そう言うしかないのかもしれませんね。
主体性を手放すか手放さないかというぎりぎりのところで
まこっちゃさんが出された重い答えのような気がします。

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