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この世界を離れて真実はない

前回の続きです。

少し整理。
『真理』とはあらゆるものを矛盾なく見る道理、及び正しい統合。

『妄想』とは真実からそれた思考。
浅い秩序、意味の世界での思考のこと。

『苦』とは統合不全により生じたひずみ。
「理解できない」「受け入れられない」現実に直面すること。

まだ名前の付けられていない一つの全体世界から、
意味を切り出し分割する。
これでとりあえずは生活できる。
例えば、“椅子”という意味を切り出し、
それに“座る”こともできる。
同様に、“明日”という意味を切り出し、
“予定を立てる”こともできる。

でも、この秩序では呑み下すことのできない事態に直面すると、
人は苦しむ。

その最たる事態は、「この自分」が死ぬということ。

「この自分」という確かな『実感』。
そして「人は死ぬ」という『知識』。
この二つが矛盾する。

おそらく「この自分」「生きている」という実感は、
浅い統合の中での中核的な秩序ではないか。
それゆえ仏教は「我」に重点を置く。

「この自分(という存在の確かさ)」と
「自分は死ぬ(という存在の不確かさ)」が矛盾する。

もっと細かくみると、
浅い秩序の統合による「自分は確かだ」という実感を
「自分は死ぬ」という後天的に得た知識が脅かす。

統合に支障をきたさないほどの実感であるなら
大きな矛盾は生じないが、
支障をきたすほどの実感となるなら、
つまり身近な人の死や自身の健康上の問題や事故などに
直面するなら、大きな矛盾が生じる。
現在採用されている統合秩序では処理できなくなる。

浅い統合原理では矛盾となるものでも、
それを包むさらに高度な統合原理からみれば、
浅い世界では正しいとされたことも実は正しくなく(つまり迷い)、
矛盾と思えたことが矛盾でないと認識される。

おそらく仏教でいう「迷い」の根本にある「我」は、
浅い統合原理の中心点、求心点にあたると思う。
この点をもとにあらゆるものが統合され意識を形作る。
この秩序を最も脅かすのが「自分の不確かさ」。

悟った人から見ると、この不確かさ、
つまり諸行無常、諸法無我、空、が世界の本質であるのに、
それに反発する統合原理を持って生きている姿が
「迷い」に見えるのだろう。

仏教ではこの世は空しく儚いというが、
それは単なる嘆きの「感情」ではなく、「事実」の記述だ。
この世界は因と縁によって常に生成消滅を繰り返して
出来上がっている世界だが、
その事実を儚さからとらえたのが「色即是空」で、
何もないものが縁によっていまここに成立したと
とらえたのが「空即是色」ではないか。

この世界が儚いからといって
この世を離れてどこかに確かなものを探しても見つからず、
確かなものはこの世界にしかない。
どこかに神という人を思い描いたところで人間は救われず、
この儚い世界そのものに確かさを見ていくのが
仏教ではないかと思う。
この世界は偽物だが、この世界を離れて本物はない。
この矛盾を矛盾としない論理によって世界を認識・統合
するというのが仏教の本質ではないかと思う。


今回書いてみて、かなりあやふやなのがよくわかりました。
特に僕が書いたのは小乗的な印象が強く、
大乗的な面には触れられていません。
あやふやなのでかえって害を及ぼす可能性もありますが、
せっかく書いたので載せておきます。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/03/04 18:45
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