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「あきらめられない」が人間の本音

自己。
自己が間違いを持っているのではなくて、自己そのものが間違い。
不完全。
自己と考えるから他者ができる。
他者ができるから不完全になる。

不完全が嫌だと常に求め続ける。
常に生き延びようと必死。
完全になろうとするのは生き延びたいから。
もう大丈夫というところへ行こうと必死。

この自己を捨てようとするのも生き延びるため。
悟りという不思議な力を手に入れれば生き延びられると思っているから。
悟りまでも所有物にしようと。必死。

でもどんなに自己を高めても、
自己でないものが常にあるのだから、結局満足はできない。
常に餓えている。

衆生を離れて仏はない。
衆生とはまた別にどこかに仏がいるわけではない。

この世界は自己の間違いで成り立っている。
間違いでないものはない。
その間違いの真っ只中に間違いでないものが。あるのだろうか。

なんでいつまでもわからないんだろう、とか、
すぐに調子に乗ってもう嫌だ、とか、
煩悩ばっかりで汚い、とか、
そう感じる心は汚くない。のか。

「もうあと一歩なんだ」と。
もうあと一歩でどこかへいかなければならないのか。
「自己を殺す以外にない」と。
自己を殺してあとに何が残る。
結局生き永らえたいから自己を殺そうとしているのだ。
自己に自己を殺すことはできない。
仏による以外に自己をあきらめることはできない。

「もう嫌だ」という言葉は阿弥陀様の「おいで」という呼びかけに他ならない。
「助けてください」を離れて阿弥陀という人か仏かエネルギー体が
どこかにいるわけではない。

無義を義とする。
「人生に意味はない」と手放す。
意味を与えてくれるものを必死で探してるけど、
意味はないのだと引導を渡してくださるのが仏。
そうすることによって初めて、生きて死ぬことができる。

「救いとは何か」と聞かれて
「救いとは何だっけ」と考えるところに救いはない。
相対の世界に救いはない。
心に浮かんでくるものを自己と思い込むからだ。
現れては消え、現れては消え、そんなものは本当の自己ではない。
そんなものは鏡に映った虚像にすぎない。
何が映ったからと言って鏡が汚くなったり大きくなったりすることはない。

でも映る虚像を離れて鏡はない。
何も映さない鏡などない。
像のその中に鏡がある。

煩悩を離れて仏はない。
この煩悩の世界の真っ只中において、
どこかにそうではない世界があるのを夢に描くのではなく、
煩悩の中にいて、これでいいと思うことができるのが本当の救い。

なぜ理想郷を求めるのか。
「僕」と思った時点でその僕には何の根拠もないから。
だから安住の地を求める。
馬の鼻先に人参を吊るすようなもので、常に不安を抱えて走り回っている。

「こんな自己という幻想に振り回されるのは嫌だ」
というその心は用意した心なのか。
「すべて幻だ。空しい」
というその心は幻か。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/03/31 16:39
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