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「はい、これが自分です」

とても受け入れられないもの。
本質的に受け入れられないもの。
生死。

阿弥陀さんというのはこの生死(に代表されるもの)を
受け入れさせてくださる方なのではないかと、最近思う。

極楽なんて別に往きたいと思わない。
そもそもどんなところなのかもわからない。
というかあるとは思っていない。
多分、それはある、と言えば仏教ではなくなる。
そんな夢を描くのが迷いなのだから。

往きたいとは思わないしどんなところかもわからない。
それはまさに「生死」。

どんなところかわかったうえで、よし、ここに決めました、
というのではない。
そもそも生死は選べないのだから。

その選べないものを選べないままに受け入れさせてくださる
ことが救いなのでは。

意味を求めれば際限がない。
欲は尽きない。
不足が補われない限り救いがないのだとしたら、
人間に救いはないといわざるを得ない。
だから不足を宿命付けられている存在としての自分を
「はい、これが自分です」と言えることが救いなのではないか。

極楽なんて願えない。
でも「はい、極楽へ往きます」と宣言することは、
「はい、私は生きて、そして死んでいきます」という宣言と同じではないか。
その宣言こそが「南無阿弥陀仏」ではないか。

強靭な精神力による、肩の力が入った宣言ではなく、
安堵による、肩の力のまったく抜けた宣言ではないか。

柔能く剛を制すというように、
もっとも強いのは何者をも屈服させる力ではなく、
何者にも屈服できる力だ。
「はい、死ねます。生きれます」と本心から言える人を
脅かせるものなど何もない。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/04/05 20:40
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