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遠心分離の自分

久々の更新。

欲しいものを取り込み、
欲しくないものを吐き出す。
求心と遠心。
我というものはそうして出来上がっている。

足りないという意識が
「あれさえあれば満足できるのに」という意識を生み、
余計なものがあるという意識が
「これさえなくなれば満足できるのに」という意識を生む。

そうして絶えず我は動き続け、その命を存続しようとしている。
止まると死んでしまうから。
“いまここ”というのは自我の死を意味する。
動く必要がなくなってしまえば自我は生きていけない。
“何かに駆り立てられる”ことによって自己の保証を得る。

我は、足りないものを補おうとする拡大の動きと
余分なものを排出しようとする縮小の動きを同時に行っている。
その運動が観念上の線となり、自と他の境界ができる。

遠心分離機のように、“不純物”が外へ出され、
“純粋な自分”“本来の自分”“あるべき自分”“なるべき自分”
の要素だけが中に残る。
そういう幻想を抱いて回転しているのが我ではないか。
別に回転でなくて磁力でもいいが。

最近、“引き受ける”ということについて考える。
自を自のままに、他を他のままに引き受ける、
つまり、求心と遠心の運動を止めると、
なぜか自も他もなくなるような気がする。
なぜかそんな感覚がある。

まあ、回転運動こそが線を作り出しているのだから、
回転を止めれば境界がなくなる、
と一応理屈っぽいことは多少言えなくもないが、
実感が先行しているのでそっちを優先したい。

以前は“自他未分割”とかいう認識上の世界を空想していたが、
そんなものは、ない。
自だけを受け入れることもできず、
他だけを受け入れることもできない。
自と他と両方受け入れることが
“世界”を受け入れることでもあり、
“この自分”、“いつか死すべき自分”を
引き受けるということではないかな、と思う。

僕の頭の中は絶えず
「どういう風に工夫していけば満足できるだろう」
「これは邪魔だな。これをなくさなければ満足できないぞ」
という声で騒がしい。
大きく分けるとこの二つしかない。
求心と遠心。これで常に延命を図っている。
“満足できる地点”とは一体どこにあるのか。
ご苦労なことだ。

ある人が
無限は自分自身を認識するために有限を創り出している、
というようなことを言っていたが
あながち突飛なことでもないのかもしれない。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/04/18 20:09
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