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及び腰でやってきました

大地に根を下ろしていない。根を張っていない。
いつでもいけるように。
いつでも帰れるように。
ここにはちょっと寄っているだけ。
用が終わればいつでも発てる。
そんな感じ。

ここに本腰を入れるのが怖いんだろう。
入れられるだけの安心感がないから。

相対有限の世界。無常の世界。意味を見出せない世界。
そこに本腰を入れることができない。
及び腰。
当たり前か。

この死ぬべきものが僕。
生まれるずっと昔から世界は成り立ち、
死んだずっと後にも世界は成り立つであろう、
そういうところに生きている僕。

例え僕が大統領になろうと、核爆弾のスイッチを押そうと、
宇宙から見れば些細なこととも思えてしまう、
そんな世界の中の存在としての僕。

この『僕』に本気でなれるかどうか。
全力で『僕』をやれるかどうか。
まず、無理だ。

片足だけこの世界において、もう片足は別のどこかにおいている。
保険として。
失敗しても、
“いえ、まさか本気でやっていたわけじゃないですよ”
と言えるように。

全力で挑んで全力で散るのは恐ろしい。
これを精神力の問題と思っていては一向に進歩しない。

この不確かな存在を『自分』と引き受けることができるかどうか。
生まれて死んでいくその中に自分のすべてが尽くされていると
認めることができるかどうか。

マクロな視点で見れば、
バックボーンが得られるかわりに個の薄れたちっぽけな存在となる。
ミクロな視点で見れば、
個が意識されるかわりに意義と方向性を欠いた寂しい存在となる。

でもその二つの視点を上手く兼ね備えれば・・・と言ったところで
それは小手先のことでしかない。

救いにテクニックが必要なのだったら、
そのテクニックを持たない人には救いがないし、
訓練の積みようのない子どもほど不利になる。
また、習得して得たものなら、
何らかの理由であっさり手放してしまう可能性もあるし、
そもそも失ってしまうのではないかという不安と
現状維持の努力で心休まる暇がない。

そういうものを救いと認めるわけにはいかない。

救いとは何なのか。
救いとはそれに飢えている人にのみ必要なものなのか。
また与えたりもらったりできるものなのか。
“個人の自由”で取捨選択できるようなものを
救いと言っていいのか。


途中から話がそれてしまった。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/03 15:23
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大地に根を下ろしていない。根を張っていない。いつでもいけるように。いつでも帰れるように。ここにはちょっと寄っているだけ。用が終わればいつでも発てる。そんな感じ。ここに本腰を入れるのが怖いんだろう。入れられるだけの安心感がないから。相対有限の世界。無常の...

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