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救われたいけど救われたくない

救われてたまるかという気持ちがある。
“はい、これで万事解決、
 もうしなければならないようなことは何も残っていない”
と、そうなることを恐れている。

救われてもらっては困る。
現実問題が山積みだから。
“はい、これでもう君はすべての問題をクリアしたよ。
 さぁ、いく所へいきなさい”
そう言われて背中を押されても足がすくむ。
最後にいくところとはあそこしかないじゃないか。
それが嫌だから「問題」を抱えたがる。
僕は救われようと努力することによって問題から逃げていた。
生(なま)の自分から逃げている。

この自分にすべきことなどたったの二つしかない。
生まれることと死ぬこと。
たったそれだけ。
しかもそのうち一つはもう既にクリアしているのだから、
あとはひとつだけ。

臨終時の話ではない。
生まれた瞬間からすべきことはたったひとつ。
それを突きつけられて生きている。


問題を解決されてもらっては困る。
(死すべき生を)生きなければならない。
だから捩れたことを願わなくてはならなくなる。
解決したくないからこそ「解決しようと取り組む」。
取りくむことによって今が「未解決」状態になる。
そうすることによって「課題」ができて、
何かを「課されている存在」となることができる。
背景ができる。バックボーンができる。
これで“生きられる”と思える。

でもその実は反対で、
課される存在になることによって
本当の意味でのこの自分を生きることから目を逸らしている。

普通生きるとは何かに課されていることだと考える。
何かを成す。
意味を実現する。
そこに生の推進力を感じ、生を実感できる。

でも本当の生とは死のこと。
“何もしなくていい。そのままでいい。今ここ”
それは推進力をなくした状態。
つまり、死。

この「今」においてすべての問題が解決し終わり、
すべての果たされるべき要求が果たされ、
この今が「果」でしかないとき、
待つべき「後」がなくなるとき、
そのとき残る最後の「果」は死ぬことしかなくなる。

“ちょっと待ってくれ、まだ死ねない”
そう思う。
それが人間の正直な感情だと思う。
そしてこれが人間にとっての最大の問題だと思う。

この生(なま)の生を受け入れられない。
だから「未解決」「不十分」「不完全」「未開発」
「可能性を持った存在である」と信じ、生の根拠を得ようとする。
その代償により愚痴、強奪、闘争の世界に落ち、
いわゆる現実問題で悩み、
さらに寂寥感、虚無感を持つ存在となる。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/06/06 19:29
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