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ずっと負けてしまいたかった

<今回の記事内の表現や内容に対して不快に感じられる方も
 いらっしゃるかもしれません。
 あらかじめお詫びします。>

先日不思議な夢を見た。
ちょっとショッキングな夢だ。
二つの夢を見て、
その両方共で映画なりアニメなりを観ていて、
その中の登場人物の腕が切り落とされた。
二つともで。

起きてから不思議だなと思いしばらくぼんやりしていると、
ふいに“欠けた存在”という言葉が浮かんできて、
そうするとなぜか心が少し落ち着くような妙な感覚が生じてきた。

“『欠けた存在』とはそうだ、僕のことだ。
そうか僕は『不具者』だったのか。”
(言葉は悪いですが・・・)


僕は今まで自分なりにあれこれ考えていて、
その中で、どうも自我というのは欠陥を持っている存在だ、
穴を持っている存在だという風には思っていた。

哲学好きの友人もそれに近いことが哲学でも言われている
と言っていたので、
僕自身は哲学や思想というのはほとんどしらないが、
まあそういう方向で考えて間違いはないのだろうと思っていた。

でもわかりが甘かったのだろう。
自我が欠損を「持っている」のではなくて、
自我というあり方そのものが欠損的(?)なものなのかもしれない
と思った。
よくいわれるように仏教では自我を不確かなものとする。
だから僕も当然のように自我を不確かなものと言っている。
でもそれは口先でだけだ。

よく振り返ってみると、
僕は自我を完全で隙のないものと捉えている。
ものを見るこの視点、考えるこの心、行為の主体。

それらを無批判に完全と捉えている。
批判的に考えてからはじめて「完全でない」と結論を下す。

この完全である(と無条件に考えている)自我の「中」に、
欠損があると以前は捉えていた。
でも、欠損を内に抱えるのではなくて、
自我というあり方そのものが欠損的なものなのかもしれない。

まああまり御託を並べてもつまらないのでそれはこの辺にするが、
例の夢を見て何か少し肩の荷が降りたような気がした。
また簡単に負ってしまえるような荷ではあるが。

僕は、本当はずっと負けを認めたかったのではないかと、
そう思う。

欠損を認めたくなかった。
存在の恥部を誰にも見せたくなかった。
見せたくないというより、自分自身が見たくなかった。

人から『不具』といわれると腹が立つ。
でも鏡を通して「自分の目」で見てみると、
ああ、やっぱり僕は『不具』だったのかと
その自分の目に教えられる。
本当はずっとそうわかることを望んでいたのだ。

隠せば隠すほど、孤立する。
負けまい、負けまいと気張っているときほど
本当は負けてしまいたかったんだ。
本当はずっと負けたかった。
ずっとずっと最初から。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/12 22:01
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