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仏教あれこれ

すこし仏教について。

仏教には○○如来とか○○菩薩などある。
こういうのを見ると胡散臭く思える。
それについて少し説明。

如来などに限らずあらゆる仏教用語は
話者が(一時的にでも)仏教フィールドにいるときにだけ
成り立つ言葉ではないかと思う。

仏教の世界に入って世界や人生、人間の話をするなら、
「如来」「菩薩」それどころか「往生」「成仏」などの言葉は平然と成り立つ。
なぜか。
仏教体系の中で話しているのだから。

それでは客観的でない、仏教という己の立つポジションを「選んで」、
その物差しを世界に当てはめているではないか、それはフェアでない、恣意的だ、
と言いたくなるが、よく考えてみるとわかる。
フラットで客観的な立ち位置などない。

例えば、「僕が」中国人とアメリカ人について批評したとしてもそれはフェアではない。
それは僕が「日本人」だからだ。
既に特定の立脚地から出している見解だからフェアではない。

だから「仏教フィールド」で語るのがおかしいとは必ずしも言えない。
特定の視点を持たないでものを語ることはできないから。
よく言われるように、そういう意味では近代科学の「客観性」は幻。
必ず見る視点がある。見る主体を抜きに云々している。

仏教は人間が陥るその辺りの認識の不確かさを突く。
人間がものを語るなら必ず「自分」という視点を持つ。
それを我(ガ)という(多分)。
我は誤り。だから我抜きでの認識について示そうとする。

仮に僕が「世界」と表現しているそれを、
僕でも誰でもなく、視点を一切持たないで表現するとどうなるか。
何とも言いようがない。言語化不可能。

「世界」という言葉は僕の視点だから言えることであって、
その「僕」ですら恣意的な概念に過ぎない。つまりフラットな視点ではない。
厳密に見れば僕も世界の一部だから、僕を「僕」の視点で語らないとすれば、
それは「全体」としか言いようがない。
でもそれはただそう言うだけであって何の説明にもなっていない。

仏教ではこの「全体」単位でものを見ていく。
(ちなみに全体を見る客観的で抽象的な視点が別にあるのではなく、
 全体そのものの中に具体的な視点がある。)
そうすると、「娑婆」「穢土」「浄土」などの言葉を使う方が
実用性や具体性があり、それを使う方が自然になる(のだと思う)。
用をなさない言葉に存在意義はない。
ちなみに法という意味での世界なら、「真如」「法界」などとも表現する。

これらの言葉は単なるラベルではなくて、
ラベルの中に対象物を含んでいる。
具体的な働きを持っている。
真理について語ろうとするなら、
どうしてもラベルとそれを貼られる対象物とは一致してくるのだと思う。
これも「視点」と「言葉」の性質上。

だから、仏教フィールドで世界を語ることは恣意的なこととは限らない。
「如来」と言っても「はあ、そういう人がいるのか」と思う必要はなく、
人間の心の中に「如来」と表現されることで活きてくる
何らかの心理学的な体系があるということ。

その真偽及び仏教自体の真偽は当人次第。
先達を見て判断するしかない。
仏教が真だとわかっているなら入門する必要はないから。
正しいと思えないなら別にキリスト教フィールドなどに行ってもいい。
おそらくキリスト教もその辺りのことは踏まえているはずだから。

ただいえるのは、真理に触れるなら必ず何らかのフィールドを必要とするということ。
フラット幻想を持っていては一向にたどり着けない。
見ている「自分」が何者かも分からずに
その自分に「見えているもの」を信用するのはある種の暴挙だ。
完全オリジナルなフィールドを創るのもいいが、
そんなことができる大天才は何千年に一人だろうから・・・。

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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/06 21:56
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