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背負った罪はその場に置いてくること

一体罪とは何か。
ある子どもが友達の子を叩いたとする。
そこへ叩いた方の子の母親がきて、「なんで叩いたの?」と聞く。
するとその子は「叩いてなんかない」と言って泣き出す。
この子は嘘をついたことになる。叩いたのだから。
これはどこにでもある光景。

叩くのが罪か嘘をつくのが罪か。
これを検討したところで有意義な答えはでない。

人間においてただ一つ罪と言えるのは、嘘をつくこと。
嘘をつかない人などいない。
「自分は嘘つきです」と言える人がどれくらいあるだろうか。

嘘とは自己を偽ること。
そう考えると自己の嘘つき加減がよくわかる。

最初の例の子は、「友達を叩いた自分」を受け入れられなかった。
だから嘘という罪を犯した。

大人でも、人に自分をよく見せようとする。
それは自己を偽っているために、これも罪。
反対に、「自分は価値のない人間です」という人もいる。
自己とは価値云々以前に「今ここ」に存在しているのに、
それを否定しているのでこれも罪。

こうやって書いていけば何もかもが罪といってもおかしくなくなってくる。
そうすると「罪深い我を救いたまえ」という心情がでてくる。
これも「罪を犯した(今ここにおける)自分」をなかったことにしようと
しているのでこれも罪になる。

罪、罪、と言ってきたが、おわかりのとおり「断罪を」という趣旨での記事ではない。
人間は法律以前に罪にまみれている。
罪こそが人間の心情だ。
「弁解したい」「返上したい」「よく見られたい」「自分はそうじゃない」
どれも自己から目を背けている。それゆえに罪。

世間ではよく「自信をもて」という。
でもよく考えると罪ばかりおかしておいて自信など持てるわけがない。
けれども実際、皆誰しも自分の中のどこかしらに自信を持っている。
譲れない一点を持っている。
その自信は別名うぬぼれという。
「私は自信を持っている」と言っている人は
実は「私はうぬぼれている」と言っている。

このうぬぼれを大きな罪だと思うのは大間違い。
うぬぼれずにはいられないのが人間の本性なのだから。
罪とは人間の本性、現にある自分を否定することなのだから。

他人に迷惑をかけることそのものは罪ではない。
迷惑をかけた自分を消したいと思うのが罪だ。
けれどもまた一方でそう思わざるを得ないのも人間だ。

人間は堂々と歩いていける存在ではない。
むしろ、俯いて生きていかざるを得ない存在だ。
でもこれはボロ雑巾のようになって
生きなければならないということではない。
己の負の罪を溜め込むからボロ雑巾を演じてしまうだけで、
演じるならそれこそが大きな罪だ。

「ごめんなさい」と「ありがとうございます」は表裏一体だ。
己を恥じることに熱中している人のことを自己中という。
礼を言いながらも自身の至らなさを責めるのに奮闘している人も自己中という。
それこそを罪という。

罪を溜め込むのは大きな罪だ。
背負った罪はその場に置いてくること。

「罪ばかり犯している自分に価値はない」と。
なぜ罪を犯すと価値がなくなるのだろうか。
その考えこそが現に生きているこの身への反逆罪となる。
反逆罪であって、実はそれこそが正当な人間の証でもある。

罪を犯すのは普通。罪悪感を持つのも普通。
それなら普通ばかりの人間がただ生きているだけだ。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/04 19:52
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