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ぶらさがり存在

「未」という存在。

失敗したとき、ここを改めねばと思う。
恥じる。
「完成」に向けて。

「今の自分」を考えるとき、
それを完成形として捉える人はいるのだろうか。

誰もが言い訳をしている。
「今はまだ十分でない」
「今後次第」
「努力次第」
「自分に運があれば」

自分とは何か。今の自分とは。
この自分とは「あるべきはずの自分」にぶらさがったもの。
あるべきと思い描いたものにぶら下がる主体性を欠いたないもの。
来る風次第でどうとでも揺れ、
それでいて自分こそが主役だと思っているからいつも揺れに疑問を持っている。
揺れながら揺れを止めようとしている。
そしてその動きによってさらに揺れていく。
揺れているのは自分が幹や枝ではなく、木の実などのぶらさがり存在だからだ。

誰もが自分を「未」の存在と思う。前方に余地を残す。
「結論」「結果」にしない。
自慢も自己へ執着。卑下も自己への執着。
「自分だからこそ」も「こんな自分には」も両方執着。
聖人にも自分を特別視する心はいつもあるのだろう。
人間、皆一緒。自分だけということはない。

ある人がいった。
「霊柩車に追いつかれないようにと走っていても、やがては追いつかれる」
そうだった。こんな当たり前のこと。
皆死ぬのだ。僕だけじゃない。

僕だけ真にやるべきこともせず時間を無駄にしていると思い悩んでいたが、
皆、そうだった。
皆時間を無駄にし、皆死ぬ。
僕だけだと思うのは身びいきだった。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/08 20:16
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