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いつも酔ったような目をして

2008年8月27日

真理なんてどこにもない。
そうか。
どこに真理があるのかと探していたけど、
結局求めていたものはどこにもない。
あるとすれば己の内にはじめからあった。

真理を求めるその姿勢の中に最初から真理はあった。
よくこういうことは聞くけど、本当にその通りだと思った。
僕の仏教に対する理解はまだまだ甘かったようだ。
わかっていたようで何もわかっていなかった。
一度、少しでもこのことに触れてみると、
なぜこんな簡単なことに気付かなかったのだろうと思ってしまう。



などと自惚れてみて、その4日後にはこんなことを。



2008年8月31日

真理は外にはなくて、己の内に最初からあったのだとわかったのに、
すぐに“己の内”という名の外に答えを求めてしまう。
人間の孤独と世の無常から離れて真理はないだろう。
どうも悟りという到達地点を作ってしまう。
もう少しでそこに辿り着けそうな気がして、急いでしまう。
その一端に少し触れた気がしたから、ともう一度それを探し求めてしまう。

肝心なのは己に従うこと。
己の身体に聞いてみる。
少し疲れているようだ。
わかっている。
僕は何かしていないと不安でしょうがないんだ。
その不安を消そうとしている。
でも、この不安をなかったことにしては、本当の平安など得られない。


2008年9月7日

一息一息を真剣に生きよう。
一息も一日も同じようなものだ。
継続や目標とかに目を奪われると、
その枠の中での一つはちっぽけなものに思える。

でも、例え坐禅を何年もやり続けた人でも、
そのやり始めの一日は僕らの今のやり始めの一日と何も変わらない。
毎日のその日の分だけ坐り続けた。
それを時間軸で見ていくと何年ということになった。
でも一瞬一瞬が全てだ。

呼吸にしてもそう。
○回きちんとした呼吸をしようと考えても、
その○回にとらわれてはならない。
一息一息に全人格を懸ける。



・・・。
自分の中にずっと一貫してあるものを感じる。
“真理を求めずにはいられない”
“でもその心にこそ誤りがある”
“ならどうしようもないじゃないか”
これだけ並べて見えてくるのは、
結局、誰かに褒められたいというような気持ち。
神を信じていなくとも、
「自分はこれだけやりましたよ」
「誰にも文句は言わせませんよ」という気持ち。
そんな気持ちでも持って墓場に入ろうとしているのだろう。

僕は苦しい苦しいと言いながら楽しんでいる。自我を。
自分に酔っている。
でもそれは浮かれて呑む酒ではなく、やけ酒。
つまみの変わりに自分の身体を傷つけている。
皆そう。
そしていつか半笑いの酔った目を閉じてそのまま死んでいく。
酔生夢死。

自己満足という言葉があるが、本当に自己を満足できるのならそれでいい。
困ったことには本当には自己を満足させられるものがない。
皆どこかで誰かに足をひっぱられている。
自分に自分の一番無防備で繊細なところを握られている。
そのひっぱる手を無理に振り切ろうとするから後ろめたくなる。
心が晴れない。
その後ろめたさが酒をやけ酒にしてしまう。
僕なんかは人一倍その手をちょん切ってしまおうとするタイプ。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/11 22:38
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