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心が暗い

自分は一体何に苦しんでいるのか。
何を求めているのか。
何から逃げようとしているのか。

「心が暗い」んだ。
それに尽きる。

金持ちになったところで。
名声を得たところで。
人類に貢献したところで。
人を救ったところで。
悟りを開いたところで。

心が暗い。

このまま一生が終わると思うと愕然とする。
何も為さなかった。
生命の骨髄に響くようなことは何も為さなかった。
ずっと暗いだけの一生だった。

幸せになりたければなればいい。
だがこの暗さはどうしてくれる。

灯りがない。
希望が、ではない。幸運が、ではない。
ただ灯りがないだけ。

明かりのなさが心に影を宿させる。
何をしていても暗い。
視力がないのだから。
何を見てもそこに翳りがある。
その翳りが踏み出す一歩を鈍らせる。
伸ばす手を躊躇させる。
生命全体が後ろめたいものになる。
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つぶやき | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/11/28 21:37
コメント
暗さを認識できるのは
その暗さよりも明るい状態を思い浮かべられるからでしょう。
たとえ、その明るさが、現実のなかのどこを探しても見つからないとしても。

人間にとって、イメージと現実の違いは明確に区別できるのでしょうか。
ありもしないのに物語られる、ただそれだけで現実として捉えられているのは
世界の大ベストセラーでもある聖書の物語にも言えることです。

ちなみに、僕も、言い当てられたいです。
このところずっといろいろと破綻していて、
でも周りは変わらず動いていて、とてもついていけず、
苦し紛れに(久方ぶりに)訪問させて頂きました。

そんな状態であってさえ、
こうして偉そうに物語ることだけはできてしまう。
言葉にしてしまえば、それが現実の一部となります。
正直、自分に驚いています。

自分の不安定のために
かめさんを利用させて頂いた、罪悪感も交じりつつ。
失礼いたしました。
お久しぶりです
まこっちゃさん、お久しぶりです。
コメントありがとうございます。

自分で書いておきながら、ですが、「心が明るい」とはどういうことなのだろうと。
暗いということだけはわかりますが、どういった姿が明るいのかよくわかりません。
それは、人間にとっての救いとは何なのか、ということですが。
話がそれました。

まこっちゃさんは最近調子があまりよろしくないのですね。
僕もややそんな感じです。

不安定であるがゆえに他者への働きかけが起こるのではないかなどと思います。
もし不安定でなくなれば他の人に話すことなんてあるのだろうかとさえ思えてきます。

「言葉にしてしまえばそれが現実の一部となる」
考えてみれば確かにおっしゃる通りですね。
まこっちゃさんはその辺りのことに敏感でいらっしゃるのですね。

言葉の中身は現実でも空想でも何でもありなんですが、
それを言葉として発した瞬間に「言葉」という現実や行為になってしまいますね。
人間にとっての救い
僕の場合、
納得できることが救い
だと思っています。
これは完全に僕の個人的な感覚で、要は、僕自身が何でもとにかく納得したい性格だからなのだと思います。

ここで言う「納得できる」は、
不承不承に受け入れるような表面上の「納得」を含むものではありません。
あくまでも心の底から「納得できる」ことです。
僕は死が怖くて仕方がない人間ですが、
それでも、自分が死ぬことを心の底から納得できた時には、もう既に死は怖くなくなっているはずです。
問題は、本当に納得できる時が来るのか、とか、
そもそも納得できる問題なのだろうか、とか。
かめさんと言っていることは同じかもしれませんが、
僕の感覚としては、そんな感じです。

「言葉にしてしまえばそれが現実の一部となる」
これって、すごいことだと思いませんか。
別に神じゃなくたって、(限定的にですが)現実世界を創ることができるわけですから。
もしかすると、地球上に人類が誕生していなかったら、世界に愛は存在しなかったかもしれませんよね。
言い方を変えれば、単に人類の思い込みなのかもしれませんし、
他の生き物は、人間には知り得ない別の現実を持っているのかもしれませんけど。
No title
僕も納得できることが救いだと思っています。
まこっちゃさんは、とにかく納得したい性格だからとおっしゃいますが、
結局のところ、誰でも、納得できないままでは
ずっと不安定な生き方を続けることになると思います。

僕は思うのですが、外から「これが真実だよ」とどんなに丁寧に教えてもらえたとしても、
それは救いにならないような気がします。
自分で納得するしかないと思います。

では、この自分が納得できるものとは一体何かと考えますと、
少なくともそれは普遍的で客観的で一般的であるような、
誰にでも当てはまるものでなければならないと当然考えます。

ところが、もしある瞬間に何らかの納得ができたとき、
そのときはもうその答えが客観的であるか妥当であるかどうかは
どうでもいいことになっているような気もします。
もう自分が納得できたのですからどうでもいいのです。

ただ、死に対する納得については最近思うのですが、
もしかしたら納得できないものなのではないか、と。

納得できないと苦しいからその答えを求めます。
苦しければ苦しいほど、その要求は純粋で真摯なものとなります。
おそらく僕のそれもまこっちゃさんのそれも、真摯な要求だと言っていいものだと思います。

けれども、どんなに真摯であったとしても、それが叶うという保証はどこにもありません。
「いつか叶う」ことを夢見て頑張っていますが、叶うという保証はどこにもない。
残酷ですが、むしろ、叶わないのではないかと思います。

そうすると、問題とする点が間違っているのではないかと思えてきます。
問題は、客観的な正解があるかどうかではなく、
自分自身が夢を見ているところに誤りの原点がある、ということです。

夢を見るところから夢が破られた苦しみが生まれている。
ただこちらが一方的に期待をかけて、それが破られて落ち込む、
人間はそんなことを繰り返しています。

何が救いか、ですが、
納得をしたい人に納得が与えられるのが救いなのではなく、
どうあっても納得ができないものだったのだと本当に知ることが
救いなのではないかと仏教をやりつつそう思います。
その事実を本当に知らないから、
「納得したいなぁ」「納得できるのだろうか」というボヤキが出てくるのだと思います。

上手く説明できなくてすみません。

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