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自己の欲深さを知る

期待をするから絶望する。
絶望するのは期待をしたからだ。
期待をやめろという話ではなく。

絶望したときにはじめて自分が期待していたのだと気付く。
その期待の目で世界をみていたのだと気付く。
その目は自己中心の目。

壁にぶつかって歩みを止めざるを得なくなったとき、
初めてこちらから期待の手をあちらに伸ばしていたのだと気付く。
そのはね返りにより、自己の欲深さを知る。

おそらくそこに真理がある。
でもそれがなかなかわからない。
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「自己」を見つめる | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/12/15 17:46
コメント
自己中心の目
結局は、自己中心の目だったのだ。
・・・ということを受け入れることは、自分で思う以上に非常に勇気の要ることなのかもしれません。

どこか別のところに、自分の期待の受け皿が客観的にある(はず)ということにして、
自己中心の目であることを内心、避けている。
すべてを背負うには自分の人生が重すぎるからかもしれません。

僕の、「かもしれません」という言い方だって同じです。
「僕以外の人も含め、人間とはそういうものではないのか」という言い回しで、
僕個人としての思いであることから逃げているわけです。

いま、こうしてここにいられる。
自分の意見まで言える。
考えてみれば、それだけで充分な特権ですよね。
かめさんの言葉にハッとさせられました。
No title
「僕はこう思う」と言える人に憧れます。
責任回避のために「皆がそうだ」というニュアンスを持たせるのでもなく、
「他の人はどうでも良い」というニュアンスを持たせるでもなく、
事実自分はそう思うからそうだと言える人です。
人の指摘にも柔軟に対応できる人です。

ところで、本当の客観なんてあるんでしょうかね。
どんなに客観的だというアピールをしても、
それを客観的だと判断しているのは自分ですからね。

僕ら(人間を代表して)は客観を求めますが、
それは「客観性」の持つ土台のような安心感を求めてですよね。

だから僕らが求めているのは客観でも正解でも真実でもなく、
ただ安心したいだけ、なんじゃないかと思います。
「納得したい」のも安心したいのが根本だと思います。

すると薬となるのは「納得できるだけの道理」ではなく、
「安心できる何らかのもの」ということになると思います。
僕が頑固すぎるのかもしれませんが
「安心したいのが根本だ」からといって、
安心できるものを求めよう、とは僕には思えません。
くどいようですが、
やはり、それでは大切な何かを偽ってしまっているような気がしてしまうのです。

例えばの話、
「安心できてしまえば勝ちだから、洗脳されてしまおう」
とは、どうしても思えません。
もちろん、既に洗脳されてしまえばその拒絶感すら持たなくなってしまうのかもしれませんから、
そうなってしまったほうが確かに「勝ち」かもしれません。

でも、少なくとも現にそうなってしまうまでは、
「そうなろう」とは思えないです。僕の場合は。
(逆に、今の僕も既に何らかの価値観で洗脳されていてそこから抜けられなくなっているのかもしれませんし、そのことについては僕自身では確かめる術もないことですが。)

・・・ただ、当然、自分の許容量というものがあるわけで、
とても自分で背負いきれないほどのことを、ただ納得したいばかりに突き進んで追い求めて、
潰れて周囲に迷惑をかけてしまっては元も子もないんですよね。
それもわかっているつもりなんですが、
究極的には、僕自身の納得したい欲望のほうが勝ってしまっている、
ということになるのだと思います。
「皆さん、ごめんなさい!」と心の中で叫びつつ、自分の欲望を優先して生きています。
そういう意味では、僕の生き方は非常にわがままだとも思います。
矛盾してますが
「安心できるものならなんでも」というのとは違います。
人それぞれ頼りとしているものや生き甲斐としているものがあると思います。
けれども、それらがなくなるともうその人は立てなくなります。
だから絶対になくならないものを「神」や「真理」と言って人は心に描いて求めています。
そうせざるを得ないからです。

けれども、僕もまこっちゃさんも、「答えはこれだよ」と何かを差し出されても、それでは満足できない!という思いがあるのだと思います。

それでも僕はそれでいいと思っています。

最近僕が思うのは、
人間は真理を追い求めずにはいられないという性質を持っているにも関わらず、
しかしその願いは叶わないのではないか、と。

欲しいと思い描いているそんなものは幻であり、誤りだと思います。

でも、矛盾するようですが真理は得られるとも思います。
願っていたのとは違う形のものが与えられるのだと思います。

悟った人がよく言うには、「欲しい欲しいと言っていたが求めなくても最初から持っていた」という感じです。

とにかくこの「納得したい」という思いや行動は、誤った態度なんですが、
これを続けなければ真実にはたどり着けない(安心できない)のだと僕は思って頑張っています。

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