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スピリチュアルにつきまとう匂い

明晰夢を見てから霊界について色々調べたりしている。
ただ、気になるのは霊関連のことについて書いている人に感じる
独特の匂い。

「自分を高める」
「経験は宝」
そういうようなことを言ったり、
その世界に陶酔している人。

別に霊関連のことに興味を持っている人だけが
こういうことを言っているわけではないが、
スピリチュアル好きの人に顕著にそれを感じる。

人間中心主義というか、自我中心主義。

自分を慰めてくれるものを身の回りに並べているだけではないか。

スピリチュアルっぽいことを言う人や霊について触れる人のことを
人は「宗教的」と言うかもしれないが、
そんなものが宗教なのではない。

一体宗教とはなんなのか。

自我の殻を破るのが宗教ではないか。

経験を積んで自分を成長させて、
“それで何?”“それが何だというの?”
それに答え得るものが宗教ではないか。

それは理屈ではない。
“人間は○○のために生きているんですよ”
とそういう形のあるものではない。
そういう形のあるものは死を前にすればきっと吹き飛ぶ。

自己の殻の中に閉じこもって自己の成長に陶酔している人でも
ふと思うことがあるだろう、
“これが何だと言うの?”というその疑問に向き合うところから
始まるものが宗教ではないのか。
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人間観 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/02/15 20:44
コメント
宗教か、哲学か
ふと、僕は
「そこから始まるのが哲学ではないか?」
と感じました。

問題意識の源流が同じだとしたら、
宗教と哲学を分けるものは何なんでしょう。
納得の仕方でしょうか。
方向付けの違いでしょうか。

結局のところ、
人によって呼び名が違うだけで大差ないような気もします。

哲学から始まって、宗教や思想が生まれる。
そんな言い方ならもう少しシックリ来る気もします。
救い
まこっちゃさん、コメント有難うございます。

確かにそうですね。
「そこから始まるのが哲学ではないか」
そう言えると思います。

ただ僕は、哲学のことについては全然知らないんですが、
哲学が“何らかの答え”を提供するものだとしたら、
そこに宗教との違いがあると思います。
宗教といっても仏教しか知りませんが。

また、人を救うことを目的としているかどうか、
という点から見ても哲学と宗教には違いがあるのかもしれません。

「人間の生きている意味は○○だ」
「この世界の源は○○だ」
などと言うとしたら、それは絶対の救いにはならないと思います。

なぜなら、その“答え”と、それを聞かされる“人間”との間に溝があるからです。

溝があるために、その答えを採用するかどうかに自由があります。
これはすごく恣意的な感じがします。
「従うも従わないも自由」ということであれば、
そこに絶対の救いはないと思います。
あまり論理的には言えませんが。

問答無用におさめ取られるものでなければ絶対とは言えないと思います。

ですから、哲学が“絶対の答え”なる形あるものを
文字化することを目指しているとしたら、宗教とは異なると思います。

答えそのものではなく、その歩みこそが哲学なのだ、という話でしたらわかりませんが。

ただ、“自分”と“哲学”と二つが別々にあるとしたらそれは二元論になります。
二元である以上「やるかやらないかは各自の自由」ということになります。
仏教は一元に還ることを説きます。

ですから、単に「歩み続ける道こそが宗教だ」
「どこまでも向上していくその歩みが宗教だ」とも言い切れないのです。
仏教の中には確たる“答え”があるからです。
ゴールがあります。道だけでなく。

“答え”はあるんですが、それが“自分”と切り離してあるようなものではないようです。
自と他と二つに分かれる前での話だとよく聞きます。

そこのところは僕はまだつかめていないので説明できないです。
全体的にわかりにくい文章になってすみません。
付け足し
まこっちゃさんへ、付け足しです。

「やるもやらないも自由」ということであれば、
そこに個人の責任が生じてきます。

この個人って、すごく弱いですよね。
ひどい罪を犯してしまったらそれでもう揺らいでしまいます。
“自分”というのは、そういう突かれると痛い部分のような気がします。

理論ならどこを突かれても問題がなかったとしても、
自分そのものを突かれるのは痛いです。

“理論”に対する保証はあっても、“自分”に対する保証がどこにもないからです。

それに、仮にその理論は正しいと判断したとしても、
自分にはそう思えるだけでそれが“本当に”正しいかどうかはわかりません。
そういう疑問は意識するしないにかかわらずずっとつきまとうものです。
ここでも「自分の判断」と、“自分”がまた問題になってきます。


哲学が絶対の救いを用意したとしても、
それを採用するかどうかに個人の自由があるなら、
いかに哲学に落ち度がなく完璧な理論であったとしても、
それとは関係のない個人の部分が責められれば、
それで負けてしまいます。

「理論はわかったから、それを言う“あなた”はどうなの?」と聞かれて
それに答えられないようなものだとしたら、
それは救いではないと僕は思うんです。

それから、
自分のした行為について責任をとろうとしても、
それにストイックになればなるほど、孤独を感じると思います。
それは自己が何にも支えられていないという寂しさだと思います。
結局はすべてが自分の肩にかかっているとなると、
生きていくのが中々難しいと思います。

仏教は、これらはすべて自我意識による錯覚であると説いて、
その錯覚からの克服を勧めているのだと思います。
哲学と思想の違い
僕の理解では、
哲学とは「答えを与えるもの」ではありません。
とはいえ、
哲学の定義は何か、と訊かれると僕にもよくわからないのですが・・・。

たぶん、間違いなく言えるのは、
哲学の本質は「問う」ところにある、ということです。
問いを重ねた結果、辿り着いた体系が「思想」と呼ばれます。
言い換えれば、
哲学的営みの結果、生み出されるのが思想だ、
ということになるかと思います。

物理学や化学などの自然科学も、
数学も、心理学も、社会学も、
言語学も、アートも、
源流は哲学にまで遡ります。
哲学的問いの末、行き着いた答えに当たるものが
上記の各学問やアートである、
と言えるのではないかと思います。
極論かもしれませんが、
「答え」に行きついてしまった時点で、既にそれは哲学ではないのではないか、
と僕は思っています。

少なくとも、「答えを与えるもの」が哲学ではあり得ず、
むしろ哲学はその対極にあるものだと僕は理解しています。
哲学的問いとは何か、という問いもよく見られますが、
僕は、哲学的問いとは「そもそも・・・」から始まる問いだと思っています。
そもそも、既成概念ではこれが正しいと言われているけれども、実際は違うんじゃないか、・・・とか。
そもそも、地球は丸いとはどういうことなのだろうか、
そもそも、人生に意味なんてあるのだろうか、
そもそも、死ぬとどうなるのだろうか、
そもそも、なんで僕は僕で、あの人ではないのだろうか、等々。

そこで宗教なのですが、
哲学的問いの末に行きつくものとしての宗教があるのか、
それとも、根本的に別物としてあるのか、
宗教にも様々なものがあるようですし、両方のパターンがあり得そうで、
僕には、よくわかりません。
なんだかんだと問う以前の、強烈な思いから始まる宗教もあるような気がしますし、
問いの果てに、昇華され行き着く宗教的理解もあるような気がします。

・・・中途半端な返信ですみません。
僕にもよくわからないんですが、こんな感じで僕は捉えています。
よくわかりました
なるほど、よくわかりました。

哲学の本質は「問う」ことにあるのですね。

「哲学」を学問として考えるなら、宗教とは違うものだと言えると思うのですが、
「哲学的問い」として考えると、
「宗教的問い」と分けて考えることはできないような気がしました。
重なっている部分は大きくあると思います。

趣味として哲学をしている人もいるでしょうが、
切羽詰まって哲学をしているような人は、
切羽詰まって宗教をしている人とよく似ています。

そもそも切羽詰った人間の行動にそんなに多様な種類はないのでしょうね。
趣味としての哲学
おっしゃる通りだと思います。

確かに、「趣味として哲学」をしている人もいると思います。
結構多いと思います。
大学にも「哲学科」がありますが、「西洋思想史」という授業もあります。
「西洋思想史」は、過去の哲学者が思索した結果(や、その著書)を学ぶものですので、
「趣味として哲学」に近いと思います。
「哲学科」の学生が研究するのは、(僕は哲学科を専攻したわけではないですがたぶん)過去の哲学者の思索を参考にしつつ、まだ解決されていない(と学生自身が思う)哲学的問題について、どこが問題なのかを明らかにしつつ、それに対する解答を模索する、
といったことなのではないかと思います。

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