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三木清さすが

哲学者三木清が親鸞について書いているものを立ち読みした。
この人の文章は初めて読むが、
いまちょうど考えていることについて
同じようなことを言っていたので参考になる。

いわく
『自己の反省から生ずるものは、
それが極めて真面目な道徳的反省であっても、
後悔というものに過ぎず、後悔と懺悔とは別のものである。
〔後悔はそれぞれの行為、懺悔は全存在にかかわる。〕
後悔は我れの立場においてなされるものであり、
後悔するものにはなお我れの力に対する信頼がある。
懺悔はかくの如き我れを去るところに成立する。』


またいわく
『ここに知られる真実は冷たい、単に客観的な真理ではない。
この真実にはまごころが通っている。
まごころは理性ではなくむしろ情のことである。
我々は人間的真理を二と二との和は四であるという数学的真理を知ると
同じように知ろうとするのではなく、
またそれはそのように知られるものではない。』


さらに
『もとより諸行無常は現実である。』
『親鸞においては無常感は罪悪感に変わっている。』


よくもまあこんなにいいタイミングで出あったものだ。
「後悔」するのは自己中心の心だ。
そこでは責任の所在はこちらにあったりあちらにあったり安定しない。
本当の責任というのは「全責任」となる。
その全責任を自己に引き受ける。
自己の所有物や属性にするのではなく、
「責任あっての我」となる。
何もないところに「自己」が独立して存在しているのではなく、
「罪において」自己が存在している。
「罪における我」。それで一つの単位。

それから真実について。
真に客観的なものは冷たいものではない。
ちょうどそんな気がしていたところだ。
一般には理に徹するほど情とは離れていくと考えるが、
真実の理性というものはそういうものではない。
知る主体と知られる対象に分かれるから冷たくなるのだ。

それと、
「親鸞においては無常感は罪悪感に変わっている」
これも気になっていたところ。
なぜ「むなしい」が「私の罪」となるのか。

むなしいというのは感情ではなく事実だ。
「事実の認識」というよりも、事実そのものだ。
現実世界の属性だ。
だからそれは私の過失ではないし、「後悔」も「責任」もかかわらない。
それを親鸞聖人は「全責任」として受け取られた。
「我」が「責任」を引き受けたのではなく、
「全責任を持っている我である」と受け取られた。
それは「後悔」ではなく「懺悔」。
そこにおいて初めて真実の我を感得なさったのだろう。

その、懺悔や悲しみが反転して自己の根拠となるところ、
そこを知ることさえできたら・・・。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/14 21:11
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