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驕り

法を正すという大義の裏に潜んでいたもの。
本当は、自分は正しいのかと世に問いたかったのだ。

自分と異なるものを遠ざけ、同じものを求め探す。
異なると言って嘆く。
同じ者がいないと言って嘆く。
寂しいという。

本当は自分から遠ざけていたのだ。
自分を大事にしたいと思うから、人を遠ざけてしまう。

すべて自分中心の心のせいだ。
人が愚かに見え、自分だけが正しいと思っている。
真偽のほどはともかく驕りの心のゆえだ。

ああ、そうか。
僕は人を馬鹿だと見ていたんだ。
自分の醜さも知らず。

勉強できない者もあるだろう。
運動できない者もあるだろう。
人がそうだとしてもどうとも思わない。
でも自分がそうであるのは許せない。
一つでも欠点があるのは許せない。

ずっとそんな驕りの心を持って生きていたんだ。
驕りを驕りとも知らずに、平気な顔をして生きていたんだ。
またそうするだろう。
なんて醜い。
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「自己」を見つめる | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/03/17 15:39
コメント
許せない気持ちも
また人間らしくて好いのではないでしょうか。

一切の驕りもなく、悟ったような人は
かえって味気ないかもしれません。
僕は、欠けたところがあるくせにそれを許せず、身の丈に合わないことでもがく人間の姿が
嫌いではありません。
自分の姿
そうですよね。

でも、人のこととしては好ましく見えても、
自分自身がそうだとわかったときの衝撃はなかなか耐え難いものです。

最近のまこっちゃさんとの会話の中で
少し自分自身が見えた思いがしました。
自分は自分が思っているような立派な人間ではないと
改めて思い知りました。
僕の場合
ふとした瞬間に、中途半端な自分に気づいて
ああ、僕も人間らしくて良かった
と妙に安堵する時があります。
まるで自分は機械のようではないか、という意識に苛まれてきた時期が長かったもので。

もちろん、普段は、何者かでありたいなどと思ったりもします。
でもふとした瞬間に、
自分も同じ人間だったと気づいてかえって安心する時もあります。

裸の王様になったり、杜子春の仙人になるより
よっぽど良くないですか?
心の闇
よくわかるという気持ちがあるのと同時に、
そういうものなのかなあと思う気持ちもあります。
これはまこっちゃさんにいい課題を与えられたと思って
色々考えました。
それで気付くことがありました。

少し話が飛びますが
僕の考えている仏教像は仏教界全体からみて少数派だと思います。
悟りきって味気ない人間になってしまったり、
山奥に隠居して誰とも関わらずに暮らすことに対して
他の人より批判的に考えているという自覚がありました。
本当の救いというものは限られた一部の人だけのものではなくて
すべての人を救うものでなくてはならないと考えていました。

でもふと気がつきました。
僕は出家主義だったんじゃないかと。
自分ひとりが救われればそれでいいと思っていたのだと。
この身に巣食う救われたいとの思いの裏側にひそむ心の闇に改めて気がつきました。
なるほど
すべての人が救われるべきだ
と言い続けることによって、
自分自身も「救わるべき対象」の中に含まれるはずだという客観的な保証を得たかったのですね。

最近の記事も参考にさせて頂きました。

でも、とても人間らしいのではないかと思います。
この世界は、つまるところ
価値観と価値観のせめぎあいの場所ですから。
僕もまた、僕の理想を少しでも現実にしたくて
あえて意図的なことも言ったりしながら生きる毎日です。
愚か
人間を愚かだと見ることはできても
自分自身を愚かだと見ることができなかったのだと思います。
今もそうですが。

色々考えさせてもらいました。
ありがとうございます。

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