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このままでは

世間ではよく“今ここ”が大切だと言われる。
でも今の僕はその真逆の生き方をしているだろう。

僕はずっと死ぬための準備をしている。
今のままでは死ねない。死にたくない。
このままで人生が終わるとすると、
僕はその人生をむなしい人生だったと結論せざるを得ない。
だからそうでない在り方をずっと探している。
そんなことばかりいつも考えている。

だから僕の意識は今ここにはなく、
いつか来る死ぬその場所にある。

なぜ今ここが大切だとやかましく言われるのか。
それは容易にそれができないからだ。
できるならこんなには言われていない。

今ここというのは執着を手放すこと。
でもそれができない。
どうしても気になってしまう。
早く手を打たなくては、と思ってしまう。
先のことが気になる。
僕の場合。

とても手放すことはできない。
とてもこのままでは終わっていけない。
ずっとそうやっている。
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焦り | コメント(8) | トラックバック(0) | 2013/04/11 21:28
コメント
今ここ も大事ですが
未来を思い描くことも
同じくらい大事なのではないでしょうか。

「今ここ」だけに徹すれば良いのなら、
刹那主義的で構わない、ということになってしまいます。
現にそれで自己完結してしまっている人もいるでしょう。
その人にとってはそれで良いのでしょうし、それを間違っているとは僕には言えませんが、
やはり違和感があります。

何かを頑張ろうとするのも、
何かを変えたいと思うのも、
未来に、自分の(拙いながらも)理想を思い描くからではないでしょうか。
良し悪しは別としても、人類文明は、その「理想を思い描く」ことの継続によって発展したわけですし、
新しい文化が生まれてきたのも、「理想を思い描く」営みがあったからこそです。

僕は、
かめさんが、とても人間らしい
と感じます。
前提
確かに両方大事なのでしょうが、分野が違うのかなと思います。

未来を思い描くのが大事だというのは、
生きるにあたって大事だということになると思います。
それは“どう生きるか”という生き方の問題です。

スピリチュアル系などでよく言われる今ここというのも
そうした処世術的な意味合いを持っているのがほとんどだと思いますが、
僕は今ここというのは
単なる処世術とは違う意味を以って大事だと言われているのではないかなと思っています。

未来を思い描くのが大事だと言うときは、
生きることは良いことだと無条件に認めているような気がします。
生きること、もしくはよりよく生きることは良いことだから、
それに繋がることは良いことだ、という論法です。

僕は、生きることでさえも良いという前提に置かずに考えたいなと思っています。
それは生き苦しいからかもしれませんが。
生きることの良し悪し
生きることが良い、ということを前提にするつもりはありませんし、
そう思ってもいません。
ただ、確かなのは、
こうして話をし合えるということは、お互いに「既に生きている」ということです。

未来を思い描くのは、
「どう死ぬか」「いつ死ぬか」ということでも構わないと
僕は思っています。
先のことが気になってしまうかめさんを自己否定なさる必要は、まったくないと
僕には思えるのです。

良くも悪くも、
この世界は「生きている命の世界」だと思います。
死んでしまった人は、どんな偉人でも、今ここで起きていることや議論について一言も反論できません。
そして、人々は、反論できない人の言葉になんて耳を貸さずに、
生きている人の間だけで物事を決め、進めていきます。
これは良し悪しの問題ではなく、そもそもそうせざるを得ない世界だからなのだろうと思います。

だから僕は、
生きている間に(つまり自分の発言力があり世界と関わりを持てる間に)、この世界をちゃんとわかりたいのです。

話がかみ合っていなかったらごめんなさい。
既に生きている
「既に生きている」ということですね。

僕なんかは辛くなるとその「既に生きている」ということにケチをつけ始めます。
生きていなければこんな苦労はしなくて済んだのに、と。

生きるということそのものの中に肯定の意味が含まれているように思います。
自己保存の欲求はすべて肯定的だと言えると思います。
生き永らえるという行為は生を肯定していく行為だと思うからです。

僕はその辺りのことに気持ちとの矛盾を感じるときがあります。

文脈は違いますが、「そもそもそうせざるを得ない世界」とおっしゃってますように、
人間は生きていくべきだ、と言ってもおかしくないように世界は出来上がっています。
僕は肯定も否定もないゼロのところから始めたいと思っているのですが、
既に生きていて今日一日を生きようとしているところに
肯定の影が感じられて、そこに矛盾を感じます。
生まれたときから既に肯定を背負わされているような感じです。
対称的でない世界
この世界は、対称的ではないと思います。

普通、「生」と「死」の対比があるとしたら、
「生」も「死」もどちらも同じように選べるようでなければ平等でないし、対称的とは言えないと思いますが、
おっしゃる通り、(生きている我々にとっては)この世界は「生」に偏ったつくりになっています。

そもそも現実問題として、この世界に生まれてきた我々にとって、
選べることは少なく、ほとんどのことが選べない状況です。
「生」を肯定しなければならないのも、
「死ぬ」という選択をするという決断さえも「生きながら」しなければいけないから、
という、既に決められた事情があるからです。
何かを決断するのには、少なからず「時間」が必要です。
その「時間」は、生きている我々にとっては「生」によって維持されていますから、
まず「生」がないことには何も決められない、という制約の中に、我々は常に置かれているわけです。

でもこれが現実ですから、
まずこの現実を理解して何とかしないことには始まりません。
理不尽ですが、そうしなければ始まらない。
僕は、今は、そう思っています。
保留にしている
本当におっしゃる通りですね。
この世界は生に偏っているように見えます。

時間が必要なこと、時間と生が不可分なこと、おっしゃる通りだと思います。

少なくともこの話題に関しては、まこっちゃさんの方が現実的だと感じました。
僕はその「現実」の「生」を保留にして考えている節があります。
そうかもしれません
あまり直視したくないことについて、
僕がずけずけと上り込んで不躾に指摘してしまっている感が、実は、ありました。

「そんな権利が僕にあるわけではない」と知りつつも、
僕も一人の人間ですし、「納得したい」癖が出てしまい、
いつも話相手になって頂ける甘えもあって、
遠慮なく喋らせて頂いていました。

実際問題、
すべての問題を「保留」せずにバシバシやっつけて進む、なんてことはできませんし、
「保留」することは、むしろ人間の生きる知恵の一つだとも思っています。

昔の人々が、理解を超えた事柄について神話や童話で説明してきたことも、
「保留」の巧みな活用法であり、生きる知恵だったのだろう、
とつくづく思います。

わかりもしないくせに、いつまでもそこに引っかかる僕はなんて尊大な奴だろうと思う訳ですが、
「納得したい性格がやめられない」を言い訳にずるずると続けている次第です(笑)。
いえいえ
いえいえ、思ったとおりのことをそのままおっしゃって下さって結構です。

まこっちゃさんとお話していると色々なことに気がつくことが多いです。

ですからどうぞ今後とも思ったままでお願いします。

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