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血の信頼

3年前のちょうど今頃の日記を見てみた。
書いていることは今と大して変わらず
死にたい死にたいもう疲れたもうやめようもううんざり
どうせ今後楽しみが一つもないなら
もう今死んでしまった方がマシじゃないかとか
そんなことばっかり。

僕の中には
「人間関係は真に信頼し得るものではない」という観念が根強くある。
それは人間が自分が一番かわいいという思いを離れることができないからだ。
例えあるときはどれだけお互いに信頼し合えていても、
何かが起これば必ず自分を優先する。
自分が最も苦しいときにまず他人を助けたいと思えるわけがない。
相手にそれを求めるべきではない。
他ならない僕自身がそうなのだから。
だから他人に依存して生きるのはよくない。
頼るに耐えうる土台ではないからだ。

ただ、これは色々考えていく中でそういう結論に達したものと思っていたが
実は人間関係にトラウマがあったのかもしれない。
日記を見ていてそんな気がした。

家族関係。血の繋がりを持つ誰よりも身近な存在。
その存在でさえ信頼し得るものではないのだから。
僕の両親は目立った善人でもなければ悪人でもない。
ごくごく平凡な人間だ。
そんな人間でもいざとなると自分自身を優先する。
これは当たり前のことなのだ。
家族といえども別々の人格を持った存在なのだから。
僕だって例え子どもがいたとしても自分を優先するのは
目に見えている。
平常時なら子どもを優先するだろう。喜んで。
だがいざとなるとそうはならないのは
子どもを持っていないこの時点でもう既にわかりきっている。

誰もが自分の人生の主人公である。
他人にそれ以上を求めるのは甘えというものだ。
そうやって理性で割り切ろうとしていたのかもしれない。
感情の痛みを理性で上書きしていたのかもしれない。

その結果僕が求めたのは『天地の法』『唯一絶対のもの』『真理』だった。
確かなものでないととても怖くて全面的に依存できないと思った。
ただ、僕が思い描くそれらはあまりにも無機質で
およそ温もりというものを持っていなかった。

結局は、情を出してもう痛い目をみたくないし、こりごりだし
理にのみ走ったのだろう。
誰かに裏切られたわけではないが、
人間の性を目の当たりにし、自分の中にもそれが潜んでいることを認め
それで人間というものに嫌気がさしたのだろう。
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他者 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/09 21:25
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