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導き、誤らせるもの

最近よく考える。
宗教心とは何なのだろう。

浄土真宗の清沢満之は
宗教心とは「人心の至奥より出ずる至盛の要求」だと言った。
確かに人を駆り立てるものなのだろう。

学生の頃ハマっていた精神科医のフランクルは
「人間は意味への意志に支配されている」というようなことを言った。
人間は絶えず意味を欲していると。

そういえばニーチェという人は
「苦しみが問題なのではない。
何のために苦しむのかという問いに解答が無いのが問題なのだ」
と言ったらしい。

皆駆り立てられている。
自分がここにこうしているということの意味を知りたい。

以前にも引用したが
哲学者・西田幾多郎の次の言葉はいつ見ても胸に迫るものがある。

「心を苦しめ身を役して五十年の飲食をつづけ、
 その結果は焼いて棄つべき臭肉を何十年か維持しまた子孫を遺したまでであって、
 しかしてその子孫がまた同じ無意義の生活を繰り返すものとすれば、
 何とこれより馬鹿らしきことはあろうか。
 かくのごとき生命はむしろ早く打ち殺して茫々の中に投じさる方が
 いかに爽快であるかもしれぬ。
 人間は牛馬のことを笑うがわれらも無意義の性欲のために駆使せられて終生役々たるのは、
 鼻緒に縄をつけられて引きまわされる牛馬とあまり違わぬようである。」

「何と馬鹿な」
「何と無意味な」
「今のままの一生には何の価値も意味もない」
「このままでは終われない」
これが僕の宗教心。
しかし僕はその宗教心にフラれてしまった。

僕を突き動かしたのは宗教心。
けれども僕を誤らせたのもまた宗教心。

善人から罪人に変えられたというのではなく、
あくまでも潜在犯から顕在犯にされたという意味だが。

宗教界では、もしかしたら哲学界でも、
「自分とは何か」「自分が生きるとはどういうことか」
ということに疑問を持つことは良いことだと言うだろう。
だが、僕を誤らせたのはまさしくその「良いこと」だ。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/18 15:41
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