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挫折の中で

2010年は暗黒の一年だと思っていたが初めの数ヶ月はそうでもなかったらしい。
今と同じような挫折の状況にありながら
今では言えないようなことも言っている。

1月19日
『自分が考える中での最大の自分の良さは、純粋さだろう。
神を信じ、人を信じ、世界を信じる。
その自分の中で一番いいところだと考えるところが、今はまったくない。
発動できなくなっている。
きれいなことが売りなのに、それが曇って淀んでいる。と思っている。
自信がないのもわかる。
自分で自分を否定しているんだから。
純粋に世界を信じると、気持ちよく暮らせる。
でも今は信じられないから不安でしょうがない。
信じられなくなった。
不確かだと思ったから。
(中略)
何でも信じる人はすごい。
その懐の大きさ。清らかさ。
最近の僕が求めていたのはこれとは正反対だった。
来るものを必ず否定する。
狭量。灰汁で煮詰まったような自分。
本当の「信じる」というのは、何でも受け入れることをいうのか。
信じられるものを選び取ってそれを信じようとするのではない。
何でもかんでも無条件に受け入れる。
そして何にもこだわらずにさっと流していく。
(中略)
すべてを受け入れたら、それをそのまま後ろに流していかないと。
選り好みせず自分の中にどんなものでも入れ、
それを全部流してまた空っぽになる。
どんなものがきてもそれに取り合わずに平気で受け流す。
そんな風になれたら。
信じることなんて簡単なんだ。
それを流すのが難しい。』

・・・なるほど。
確かに僕は不確かなものを捨て真に信じられる唯一絶対のものを求めた。
だが本当に目指すべき姿とは何でも信じられる人なのかもしれない。
まあ綺麗事はいくらでもいえるが。

1月27日
『散歩をしていて何もかもが愛しいと思った。
物でも人でも。この世界が。この空気が。
結局、それでいいのじゃないか、そう思った。
これ以外にしあわせはない。
これ以外に生きがいはない。
愛する人がいるから生きるんじゃない。
この世界は誰でも何でも愛すべきものだ。
だから、「生きていてうれしい。しあわせだ。」
それ以外にない。
僕は自己にひきこもる中で、誰かを愛するということをすっかり忘れていた。
自分のことしか頭になかった。』

1月28日
『僕は、この世の中はいつ誰に何が起こってもおかしくないと思った。
誰も主人公じゃない。
特別でもない。
特別な時代というものもない。
だから不安だった。
でも少しわかった。
何が起こってもおかしくないけど、
それと同じ理由で今の自分は確かに存在している。
死んでも同様。
何が起こってもおかしくないけど、何かがいつも起こっている。
そしてその中のどれが重要でとか価値があるかとかじゃなくて、
すべて同様に大切なんだ。
なるべくしてなっている。
そこに意味はなく。』

2月4日
『…それなら下手に気を安らげる術を学ぼうとするんじゃなくて、
いつでも死ぬか生きるかのぎりぎりでいいじゃないか。
いつも同じ繰り返し。いつものパターン。
だからといって、
それを避ける術を得て心も大して動かない生活を送るよりは、
いつも死ぬか生きるかで全力でぶつかっていけ。』

・・・「いつも死ぬか生きるかで全力でぶつかっていけ」とのこと。
苦しいからといってそれから逃れようとするのではなく、(してもいいが)
全力で苦しめとのこと。
例えそれが「死にたい」との叫びであったとしても、
それを全力で叫ぶ中に人生があるのではないか、ということか。
綺麗事には違いないがこの時期の自分を支えていたのもまた事実。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/19 15:50
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