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生は夢を見、死は気まぐれに通りすがる

僕はこの世界というものが怖くて怖くてたまらない。
気が狂いそうなほどに。
かなり危ういバランスの上に成り立っているような気がするから。
ちょっとしたことでそのバランスが崩れ、瓦解してしまいそう。

湖に張った氷の上に絵を描く。
それをどんなに煌びやかに厳かに描き、立派なものにしたとしても、
所詮は薄氷の上に描いた絵。
少しの衝撃で氷は砕け、
あの暗くて冷たい不気味な水が下から姿を現す。
その恐怖。

あるいは
よく膨らんだ風船がたった一つの小さな針を突き立てられるだけで
瞬く間に破裂してしまう。
そのギリギリの緊張感。危うさ。

今ある世界というのは夢なのではないかと思う。
その背後には不気味で無慈悲な暗闇が控えている。

僕はいつもその不安と恐怖に脅かされ、ビクビクして生きている。
ちょっとした出来事からでさえも世界の崩壊がリアリティを持ち、
そんなときはいつも死にたくなる。
何の理由もなく自殺したと思われている人達の中には
この恐怖と不安のためにそうされた人もかなりあるのではないかと思う。
(自分の)世界の崩壊を目の当たりにするくらいなら
いっそ目もろとも無くなりたい。

死を怖いと言う人達の抱える恐怖もこれではないか。
彼らは単純に有るものが無くなることが怖いわけではないだろう。
死が、生の見る夢を打ち砕くから怖いのだ。

生の特徴は“希望”と言える。
あるいは“神話”“夢”。

世界を信頼できなければ人は生きてはいけない。
たとえそこに何の根拠もなかろうとも。
本能によってであれ、
生きようとするところに既に夢は始まっている。

どこまでも無限に広がっていくものと思っていたものが、
実は死という一点に向かって閉じていっていたのだと知るとき
人はあの不気味な感覚に戦慄する。

生はいつでも夢を見、死は気まぐれにそれを破壊する。

人がどれだけ生の上に安心を得たと言っても
それは氷の上に描いた絵にすぎないのであって、
本当の不安は薄い氷を隔てたすぐ隣に潜んでいる。
それはいつ姿を現すかわからない。
崩れ出したら一瞬で崩れ去る。
崩れ去って残るものは破片ではない。
破片でさえも不気味な混沌が呑み込んでしまう。

その混沌がいつも僕の耳元でささやく。
自分はここにいるよと。
それでいつも僕はちょっとした物音にもビクビクし
神経をすり減らしている。
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人間観 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/05/21 21:16
コメント
戦慄
>どこまでも無限に広がっていくものと思っていたものが、
>実は死という一点に向かって閉じていっていたのだと知るとき
>人はあの不気味な感覚に戦慄する。

こういう、死についてのストレートな記述を見ると、
いつも僕は怯んでしまいます(笑)。
でも最近は、
「だからこそ、こうして生きている間にちゃんと死を納得しておきたい」
と、すぐに思い直せるようになりました。
補足
すぐに思い直せる、
とは言っても、スッキリした心境になれるわけではありません。
覚悟というか、闘志というか、
そういう気持ちが湧いてくる感じです。

思うに、
「逃げてしまうか」どうかは、心の強さや弱さの問題ではなく、
「逃げ場があるかどうか」にかかっている。
死を強烈に意識する時、
もう僕には逃げ場がないのです。
好むと好まざるとに関わらず、闘うしかない。

もちろん、常に戦闘モードでいられるわけではなく、
これからも波は続いていくのでしょうけど。
願い
いつもコメントありがとうございます。

やっぱり人間にとって、死を納得したい、受け入れられるようになりたいと思うのは
切実な願いなのだと思います。
そういう意味では人間の性だと言ってもいいと思います。

僕なりに色々考えてきましたが最近どうも、
その切実な願いは叶わないのではないかと思うようになりました。
考えてみれば願いがあるからといってそれが叶うという保証はどこにもありません。
残念なことに自然の天理は人間の性に応えるようにはできてはいないのではないかと・・・。

色々考えて回りまわって結局変なところにたどり着いたのかもしれませんが(笑)、
僕の中では死を納得したいと思うのも一種の逃げではないかと思うのです。

本当に受け入れられるなら黙って死んでいけるはずです。
納得したいというのはいわばその自然の流れに逆らう心性のような気がします。
そこに人間なりの動物的エゴのようなものを感じます。

といっても、黙って死んでいける精神力を持つべきだという話ではありません。
問題なのは死を納得したいというこの性から離れることができずこれに振り回されながら生きている、ということをどうするかだと思います。

僕も結局はなんとかなるだろうとは期待しています。
ですがそれがどういう形でなんとかなるのかは想像もできません。
とりあえず、死を納得したいというこの思いがそのままの形で報われることはないだろうとは思っています。

補足ですが、自然が人間の願いに応えてくれないというのは、
自然が無慈悲だからだというよりも、
むしろ人間の願い自体が利己的で向こう見ずだからだ、という印象を持っています。
冷静に考えれば
そうなるのかもしれません。

「死」に関しては、僕自身も自分の感情が強すぎるために、
冷静に捉えきれない部分があります。
おっしゃるように、
僕が望むような形で(つまり納得するという形で)の解決は、現実的でないのかもしれません。
ただ実際、その思いによって衝き動かされて生きていることは事実であり、
それによって僕の人生が形成されていることは確かであって、
そのことに意味がある、
というのが、客観的で、冷静な見方かもしれませんね。



それにしても、「慣れ」の威力は馬鹿にできません。
怖くて仕方がないはずの「死」に関してさえ、
こうやって他人事のように語ることも、一応できるようになりました。
何かが解決したわけでもないのに、これは「慣れ」の効用以外の何物でもありません。

現実的な物事の処し方の一つとして、「慣れ」もしくは「時間の経過」の力を借りることは、
もっと重視すべきなのかもしれない、
と今更ながらに思います。
ずるい大人になってきた、ということかもしれませんが(笑)。

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