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聖人の殺傷能力

人を切り捨てること。
最近こればかりで申し訳ない。
なんとなくこれにフォーカスを合わせていれば
何かが見えてきそうな気がして。


聖人とは何だろう。
僕の中では聖人とは「正しいことができる人」というより、
「正しいことがわかる人」だという印象が強い。
ではその人達の頭の中はどうなっているのだろう。
何を見、何を感じながら日々生きているのか。

「聖人」とわざわざ言うくらいだから
それは俗人とは違うということを表している。
そして聖人はごく限られた人々であるというのが万人に共通の理解だろう。
だとすればそんな聖人の目に世の人は、世の中はどう映るのだろう。

あれも違う、これも間違い、それも正しくない。
世の中は間違いだらけだ。
なぜなら正しいことがわかるのがごく少数の人達だけなのだから。

過ちにも色々あるだろう。
過失のもの。悪意のあるもの。やむにやまれずなされたもの。
正しいとの思い込みでなされたもの。正しいことがわからずなされたもの。
そもそも正しいことがわからないということ自体が既に過ちですらある。

ということは(少なくとも)聖人以外の人々は皆過ちを犯している。
聖人にとっては「皆間違っている」という認識を持つのが当然だ。
果たしてそんな世界の中で生きる聖人に楽しみはあるのだろうか。

「自分以外の皆が間違っている」中で、
聖人はあの人を見ては批判し、あの世相に触れては批判する。
・・・僕から見れば切り捨ての常習犯だ。
聖人になればなるほど、人斬りのベテランになっていく。

間違っているものを切っていけばあとに残るのは正しいものだけ。
というよりほぼ自分だけだろう。
自分一人だけの世界。
間違ったものを切り捨てて出来上がった正しい世界。
そんな世界で生きるのは楽しいのだろうか。
本当にそれが聖人のあり方なのだろうか。
人類史上最高の聖人と言ってもいいだろう、釈迦もキリストも、
果たしてそんな人物だったのか?
人類史上最高の人斬りだったのか?

少なくとも僕が憧れ目指していた聖人というものの正体はそういうものだったのだ。

いや、聖人は人を批判しているのではなく、人を教え諭し、過ちには嘆き悲しみ憂い、
世の中を善い方へと導いているのだ、という意見もあるだろう。
しかし僕にはどうも世の中で「聖人」と定義される人は
皆独善の刃を隠しているように見えるし、
僕自身の聖人の定義もそうなっているし、
僕の「理想の自分の姿」もそうなっている。
そのことは僕にとっては重すぎるくらいに重い。
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固定観念を壊す | コメント(5) | トラックバック(0) | 2013/08/26 18:26
コメント
『日暮し』
ガガガSPというバンドの『日暮し』という歌をご存じですか。

聖人の歌ではなく、
たぶん、このバンドのボーカル(兼、作詞者)の個人的な叫びにも似た思いを歌ったものだと思いますが、
かめさんの記事を読んで、
この歌を思い出しました。

翻って、
「聖人」というのは、つまるところ他人から与えられる称号であって、
心底から「自分が聖人だ」と思う人は、実はいないんじゃないか
という気がしてきました。

キリストも釈迦も、
本人の心そのものを計り知ることは到底できませんが、
もしかすると、単にもがいて生きただけかもしれません。
周囲がその姿を見て「聖人」化しただけなのではないでしょうか。

一人だけで成り立つ宗教は、あり得ません。
宗教になるためには、それを宗教として認識する一定数の他人が必要です。
宗教を成り立たせるのは、宗祖ではなくそれを信じる信者のほうなのではないか。
そんな思いが頭をよぎりきました。
もがく聖人
日暮しという歌、知りませんでした。
歌詞を見てみました。
音楽ニュースには疎い方ですが、最近の歌はどうも「頑張って生きていこう」「強く生きる者こそカッコイイ」というような印象を受けるものが多く、
個人的には煮え切らないものがありますが、
この日暮しという歌はそういうものではなく、自分の弱音のようなものときちんと向き合っているように思えるのでずっと共感できます。
向き合うといっても「克服して強く生きていく」というものとは違うようなのでそこがいいです。


聖人に関してですが、やはり本人ではなく周りの人がそう言うのでしょうね。
ただ、僕は聖人とそうでない人とを分ける指標のようなものはあると思います。
聖人同士であるならば文化、時代、思想が異なろうとも通じる「何か」があると思います。
「悟り」などがそうなのかもしれませんが。

>もしかすると、単にもがいて生きただけかもしれません。

僕は親鸞聖人が好きで自分の理想として仰いでいるのですが、
この人は変わった聖人で
自分は悪人だ、罪人だ、自分のような者は到底救われるに値する人物ではないと言い続けた人です。
(単なる謙遜とはとても思わせないような迫力を持っています。)
親鸞聖人の一生というのはそれこそもがき続けの一生でしょう。
おそらく本人もそう言われると思います。
けれども親鸞聖人の得た境地というのは「もがき」の中に「安楽」を見つけたとというものだと思います、多分。

そうすると、聖人と俗人・凡人とを分ける物差しは、もがきの「中に」安楽を見出したかどうかであって、
もがきそのものから脱したかどうかではない、ということになります。
やはりもがきは一生ついてまわるのでしょうね。人間である以上。

まあ聖人にも色々あって、そういう方向の聖人もいるようです。
親鸞
もがき続けた人だったのですか。
知りませんでした。

「もがきの『中に』安楽を見出したかどうか」
というのはキーワードかもしれませんね。
とかく、もがきから逃げたくなってしまいますが、
自分自身を見据えるということは、
まず第一に、それから逃げないことです。
かといって「克服しよう」とか考えているうちは、
まだそれを排除しようとする心理が残っていますから、
むしろ、もがきを愉しむくらいの状況になれることが好ましいのだろうと思います。

ただ、ここで僕がいつも引っ掛かりを感じるのは、
「自分だけ悟って、周りの人たちを置き去りにして、それで平気でいて良いのか」
ということです。
本人は、それで良いかもしれません。
むしろ究極的には、自分を助けられるのは自分しかいないわけですから、
突き詰めれば「本人が良ければそれで良い」という所に行き着くのかもしれません。

でも、まだ未熟で生ぬるい僕は、
そこに引っ掛かりを感じてしまっています。
「そうはなりたくない」
と思ってしまうのです。身の程も知らずに。
周りの人
>ただ、ここで僕がいつも引っ掛かりを感じるのは、
「自分だけ悟って、周りの人たちを置き去りにして、それで平気でいて良いのか」
ということです。

これはもう、僕のことだと思って受け止めます。
僕も最近自分の中のそういうところがずっと気になっています。

周りの人を放っといてとは思っていませんが、
まず自分が助かってそれから自分の得たものを他の人に活かしてもらえたらという考えでいました。
自分で得られたものでないと自信を持って渡せませんから。

この考えはそんなに間違っているとは思っていませんでした。
でも最近愕然としたのは、「まず自分が」という意識を持つ時点で他の人を一度切り捨てているということです。
自分よりも他の人を優先に、という標語のような考えを持とうとしているわけではありませんが、
とにかく人を切り捨てたという事実はあるということです。

もし本当に聖人と言われる人があるとするなら、その人はこういう考えを推し進めた先にあるものを手に入れた人ではなく、
少なくともこういう考えを持っていた自分に気が付いた人であると思います。
(そしておそらく気がついたところでやめられません。)

僕が求めていたのは一体何だったのだろうと今も呆然としています。
すみません
すみません、まこっちゃさん。

ちょっと前にコメントを書いていたのですが、
何を間違ったのか、表示が「管理者の承認待ち」になっていました。
なので、見れない状態になっていたのですね。
すみません。

ちゃんと戻しておきましたので。

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