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「人間の」で、ぼやける

僕は浄土真宗に傾倒していて、尊敬する人も何人かいる。
その人たちと自分とを比べてみて何が最も違うかというと、
それは己の過ちに気がついたときに申し訳ないという気持ちが
湧いてこないということではないかと思う。
そしてそれはひとえに僕に仰ぐ人が誰もいないからだろう。

仰ぐ人がいればその人の前に罪をさらけ出すことになる。
しかし僕の場合はそれを自己の内で片づける。
「これは悪いことだな」との認識は、
仰ぐ人の前に出すのと出さないのとでは全く違うと思う。
そういう“誰か”がいない場合は自己の「秘密」として処理される。
公言できる形の秘密となる。
「見て見ぬふりしていた」
「わかっているつもりだったのに全くわかっていなかった」
という定番のあれになる。

他者や自分自身に向かって言うときの「過ち」は体裁が整えられていて
「原過ち」ではない。
心から仰ぐ人がいたときにだけそれが出てくるのではないか。

それから、僕はよくブログで自分のダメなところを書いたりするが、
その際必ず「これは人間の性」などと付け加える。

これは、落ち込んだ暗い内容だと思われて
「そう悲観的にならなくてもいいよ」と言われないために、
「いや、悲観的になっているのではないです、
事実を把握しようとしているだけです」というメッセージを込めて書いている。

ただ、やはり「人間の」とか「本質」とか「構造からして」と言った途端に、
急に抽象的で観念的になる。
「人間の」過ちと言った瞬間に「僕の」過ちという意識が薄れる。
そうすると当然罪悪感も申し訳なさも出てこない。
それが「普通」なのだから。
それを悲しいと感じるくらいだからなおいけない。
過ちの「ただ中」にいれば、悲しいというような他人行儀な感情は出てこないはずだ。
尊敬する人たちとの違いはその辺りだろう。

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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/11 23:12
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