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自分の顔を見る

僕は本当に自分というものにこだわっていた。
これだけはゆずれないとか。

ちょっと思い出した。以前考えていたこと。
ネットを見ていて、宗教なり哲学なりの世界観を語っている人達がいて、
僕にはそれは違うだろうという思いがあって、
「世界というものがもしそういうものだったとしたら
僕はそんな世界には何の用もない。
もしどう考えてもそうという結論しか出なくなったとしたら
そんな世界からはすぐにおさらばする。」
とか思っていた。

でも、それこそ世界は自分の思う通りのものであってほしいということじゃないか。
こうでなければ気が済まない。
これでなければ僕は生きていく気はない、と。

世界が僕の願っている通りのものであるとの揺らがぬ自信があったわけではない。
でもそれにすがるしかなかった。
そうでなければとても生きていけないと思った。
それだけが僕を動かしてきたし、生きさせてきたと言えなくもないけど、
それはやっぱりただの僕のこだわりだった。

「世界」を見る前に、まず「自分」を見るべきだった。
こだわりを通してしか世界を見ない自分を見るべきだった。
こだわりの中で生きて死んでいく自分が
「一体何をしたいのか」を気にかけるべきだった。

こんなこともある。
僕は世界に対して違和感を持っている。
社会が間違っているとかいうことではなく、
「生きる」場合、人生に対して懐疑的にならざるを得ないということ。
何か問うべき、求めるべきものがあって、
それが何なのかはわからないが、それがないことだけはわかっていて
その欠落感を埋めようと必死になっていた(る)。

いろいろ考えていく内に、
何かを僕が「持っていない」でのはなく、
僕が欠落感を「持っている」のだと考えるようにはなったが、
さらに段々見えてきたのは、
「僕はやるべきことをやっているのだ」とこだわる自分の姿。

「これはやらなければならないことなのだ」
「これを解決しないと僕はとても生きてはいけない」
と、必死に自分に義のあることを主張していたが、
これもただのこだわりだったのだ。

それを解決することこそが人間における真にあるべき姿なのだと思い、
そこに願いをかけ、それを原動力に生きてきたが、
それもただのこだわりだったのだ。

問題解決云々を語る前に
まず自分がそれをどんな顔をして言っているのか、それを見るべきだったのだ。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/16 16:21
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