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「仏まします」2 (感謝)

前回の続き。
「仏まします」1 (危険性)
「仏まします」3 (不可解)



なぜ仏というのか。
最近、と言ってもここ数日でふっと閃いたことだから
これが正しいかどうかは十分に疑わしいが、
ちょっと自分なりに納得できたことがある。

俗に言う感謝の心が仏の心の表われの一つではないか。

どうも僕は感謝という言葉にはずっと違和感を持っていた。
例えば人によくしてもらったときに感謝するのは尊いことだと。
確かに感謝の気持ちは自然に出てくるし、
それを相手に伝えれば相手もまた気持ちよくなる。
そしてそのことは人間関係をよくするだろうし
社会もまた円滑に機能するだろう。
しかしそれをもって尊いとは言いたくない。
それは社会を保つため、個人にあっては上手く生きるという
処世術や人生訓のようなもので、
それはやはり良いとは言えても、尊いとは言えないだろうと思う。

早い話が感謝するもしないも個人の勝手と言われ得る話であって、
それは普遍的な意味(人間万民に奨励すべしという)での尊さとは異なる。

それにそもそも人によくしてもらって感謝の気持ちが湧くというのは
ただの快感情ではないかという思いが僕にはあった。
自分にとって都合のいいことが起こったからうれしくなったと。
だから感謝の気持ちは忌むべきだとまでは言わないが、
かといって尊いと言って讃美するのもどうかと思う。

心理学の精神分析という学説の中に、
乳幼児期のまだ未発達な心を支配しているのは快・不快という感情で、
彼にとって快を与えてくれる者は「良い人」不快を与える者は「悪い人」と
大きくその二つに分けて対象を見ている、というものがある。(確か)
つまり、よくしてくれる者は味方で、害をなす者は敵だという
自己中心的な心は、心が形成されていくかなり初期の段階からある
人間にとって原初的ともいえる心性なのだ。
だからだろう、精神分析に限らず心の発達理論の中では
自己中心性からの脱却というのは一つの大きなテーマとして扱われている。

別にそんな雑学を知っているからではないが、
どうも僕には良いことをしてもらったから感謝する、
そしてそれは尊いことだから奨励する、というのには違和感があった。

まあ、そんな感じで、やっとここから結論になるが、
はっきり言って肩すかしのようなつまらないものだと思う。
結論は、感謝の情にはただの快感情だと言って割り切ることができないような
ものがあるのではないか、ということ。
そんなことはみんなとっくにわかっていると言われそうだが、
僕はそうならそうで、その証拠がほしかった。
今、証拠がわかったわけでは全くないが、
自分なりに厄介なものとして他から浮いていた問題を
少し普通の位置に整理しなおすことができた気がする。

なぜ仏教を築いてきた人達が、誤解されれば法が乱れる危険が
十分にあるにも関わらず、「仏」と言ったのか。
そしてそこで言われる「仏」とは一体何なのか。
それを解く一つの鍵として思い浮かんだのが、感謝ということ。

感謝というのは、普遍性を持ち、初めて尊いと言えるものであり、
わざわざ仏の心と言い得べきものではないか。
感謝の情というのは人間外の感情なのだ。
人間からはでてきようがないもの。
人間から出てくるのはせいぜい快と不快だけ。
物をもらったとき、助けてもらったとき、
もちろん嬉しいという感情が湧いてくるが、
それだけではなく、相手に対して恩を感じるようになる。
嬉しいというのは自己内を駆け回る感情だが、
恩というのは相手に向かう感情だ。
(もしかしたら唯一の社会的感情かもしれないと思ったが
 このレベルでの愛情も存在するだろうから唯一ではない。
 いわゆる無償の愛も人間外の感情だろうか。
 だとしたらこれも仏の心の一つの表われなのかもしれない。)

やや古い理論かもしれないが心理学の中には
人間の心は刺激と反応にのみよって成り立っているとするものがある。
それとはずっと広い意味でだが仏教もおそらくそういうスタンスで
考えていくものだと思う。
物をもらった結果嬉しくなった、ご飯を見た結果食欲が湧いてきた、
と洞察していく。
だが、刺激―反応方式だけでは感謝の情について説明ができない。
説明できる道理がない。いわれがない。
つまり人間からは起こるべくもない感情なのだ。
起こるべくして起こるのは物をもらって嬉しいという感情と
それに付随する相手を味方とする認識だけであって、
そこから、相手にお礼をしなければ気が済まないというような
感情が起こってくる道理はない。いわれはない。
いわれがないというのは、生まれてきた理由がないというのと
同じ次元でのいわれのなさのこと。絶対的に説明不可ということ。
心理学ならば条件付けとして感謝について説明できるかもしれないが、
(お礼をすることで様々なメリットが得られるとの学習、など)
それはやはりこじつけだろう。
つまり仏の心と言って指したいのは、
いわゆる心理学理論では説明ができないが、現にあるそれのことではないか。
(そう言いきるのは危険だが。
 言いきることができる問題なら最初から先人が言いきっている。
 言いきってしまうことができないから問題なのかもしれない。)

感謝は単なる自己満足ではないと、
そんなことは最初からわかっているといわれそうだが、
僕の中ではこれが少し整理できたことはかなり大きい。
長らく手がかりすらつかめなかった感謝と仏と別々に二つあった問題が
結びついてくれた。
感謝の情が出てくるのはいわれがない、不可解だ。
仏も不可解だ。
その不可解の部分でつながった。
根拠がわかって納得したのではない。
根拠のわかりようのないものであるとわかることでやや納得できた。
どうやらそういう納得の仕方というものもあるようで、
もしかしたら大事なことほどそういう納得の仕方になるのではないかとか思う。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/05 22:51
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