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「仏まします」3 (不可解)

これはおまけです。
前々回、前回はこちら。
「仏まします」1 (危険性)
「仏まします」2 (感謝)



不可解とは何なのか。
人に「不可解」はわかるのだろうか。
人が不可解と認識するのはどんなときか。

どれだけ考えてもわからない、
だからこれは解けない問題(不可解)なのだろうと。
でもその場合、自分に能力がないから解けないだけかもしれない
という憶測も立つ。
いずれ能力のある人が現れれば解けるかもしれない、との予測。
だから、自分に解けないという理由だけで不可解ということはできない。

門外漢だが、数学の問題だとどうか。
どういうとき解けない問題と判断されるか。
問題自体に誤りがあると確認できたとき、か。
問題の中に矛盾が含まれる場合か。

数学の場合は問題自体が持つ矛盾とその根拠は証明できるのかもしれない。
しかし数学以外ではどうだろう。
そもそも数学というのは、世界をある角度で切り取ってできたものだろう。
その「数学的世界の切り取り」自体が間違っているかもしくは
未発展段階、つまりそれを超えて包むさらに高次の切り取り方があるかもしれない
という予測を否定することはできない。

何にしてもこの「かもしれない」という予測がある時点で不可解の断定はできない。
やはり人が「不可解」だとわかるにはわかる根拠がなければならないが、
しかしその根拠が正しいという根拠も示さなければならなくなるし、
これでは終わりがないから
やはり人間には不可解だと知ることはできないのだろうか。

そもそも人は不可解をどう認識しているか。
不可解で代表的なものは、生死。
自分はなぜ生まれたのか。なぜ死ぬのか。
さらに、自分はなぜ自分なのか。
自分になぜこの一生が与えられたのか。
というのもある。
これらは不可解だとほとんどの人が思う。
ここでとりあえずの断定がある。

だた、注目すべきはここからで、
人は不可解と思いながらもそれを解こうとする。解きたいと願う。
「考えても分からない」とは頭ではわかっていても
それを解かずにはいられない。
これはつまりそのときその人は「不可解」だと認識しているようで、
実は「未可解」と認識しているのではないか。
いつか解決するのではないかと願いをかけている。
そんな願いが悟りを求めさせたり、神の啓示を求めさせたりする。

やはり人間に不可解は認識できないのだ。
それが大事な問題であるほど未可解としてしまう。
いつか解くことができる。そう信じる。

何回も言った通り、仏は不可解だ。
仏教ではよく仏の神秘を「不可思議」と言って讃嘆しているが、
これは単なるオーバーリアクションではなくて
事実を言いとめている語なのだろう。
だが「不可解」が人間と完全に切り離されて存在しているわけではない。
どこかに「不可解」なる領域があるわけではないだろう。
人間が求めるところにそれはあるのだ。
求めるからそれが「不可解」になる。
出会うからそれが「不可解」になる。
出会ったときに「不可解」は初めてその意味を持つ。
どう表現したらいいのかわからないが。

事故にあったとき、重いに病気になったとき、大切な人をなくしたとき、
人は「なぜ」と問う。
その「なぜ」こそが不可解の正体で、
これこそがすごく大切なことなのではないかと最近は思うのだが、
まだよくはわからない。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/05 23:07
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