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学びなさい。

とにかく悟りを開きさえすればそれでいいと思っていた。
その証拠に、本を読んだり仏教を学んだりしているのは悟りを開くためで、
開いてさえしまえばもうそれらのものは必要ないと思っていた。
僕にとって仏教とはそういうものだった。
そもそも好きでやっているわけではなかったのだから。

本屋に行くと、「どう生きるか」の本ばかりで「なぜ生きるか」の本が少ない。
それが不満だった。
皆どうすれば楽に生きられるか、どう生きるのがより良いのかと問うばかりで、
最初から生きることを前提にして考えている。
確かに既に生きているわけではあるけれど、それらの試みは
はっきりしない土台の上に建物をたてるというよくあるあれのように思えて
どうもなじめなかった。

でも今になって僕は「どう生きるか」こそが問題なんだなと
丸っきり考えを変える羽目になった。
僕はずっと何か・どこかへ至ることだけを考えていた。
その他のことは何も考えていなかった。
悟りがそう。悟ることができればもうそのための手段に用はない。
手段というのは、色々考えたり、僕はしていないが坐禅とか念仏とか。
それは例えば、
2階へ行きたいが階段が壊れていたり何かの理由があって階段が使えない、
で、はしごを使って2階に上がると。
上がってしまえばもうはしごは必要ない。
2階にいるのにいつまでもはしごを持ち歩くのは疲れるし邪魔にもなる。
だからはしごにはもう用がなくなる。ということ。

この場合のはしごが僕にとっての仏教だったりする。
悟れてしまったならもう仏教には用がない。
今まで何度かもう出家するしかないんじゃないかという考えが
頭をよぎったことはあるが、とてもそれを断行する気にはなれなかったのは、
悟ってしまえば出家生活には用がなかったから。
悟ったならそれを世の中に活かして生きていきたい、そういう気持ちがあった。
何よりいつも同じことの繰り返しの生活というのに耐えられないと思った。

でも考えを改めた。
道を歩かねばならないと思うようになった。
今まで僕が道だと思っていたものはいわば悟りを開くまでの道のりのことだった。
でもどうやら違うらしい。
道とは悟りはともかくどこまでも歩かねばならないものらしい。
ここまで行けばもう安心とかそういう安心を求めて歩むものではなく、
常に外れぬように身を正して歩き続けていくものらしい。

世間によくある身を正す生き方を勧める本を僕が読む気にならなかったのは
前述の通り。
「生き方」より「生きるかどうか」という所まで降りて話をしてほしかった。
「生きるに値しないという結論が出た場合はいつでも死ぬ覚悟だ」と、
そういう危ういけれども真剣な気概を持って文字通り命懸けで生きている人の
言葉の方がずっと好感を持てた。
死をいつかくる未来に置くのではなくて、
「今すぐにでも」と常に拳銃を頭に突き付けて
神経をすり減らしながら生きている人の方がずっと身近に感じられた。

が、今は身を正していくことが唯一の道しるべだとなぜか思うようになった。
面白いもので、
そういう目で見てみると、世の中にはためになるものがいかに多いかと
いうことがよくわかった。
僕はずっと「わかった人」以外の人の言葉を聞く気がなかったから。
人生経験豊かな人は「豊かに生きるコツ」を教えてくれるかもしれないが、
僕からすれば
「豊かに生きてそれが何?
あなたが豊かに生きるなら僕はあえて貧しく生きます。
それも個人の自由でしょう。
それでも豊かに生きねばならないと僕に言う理屈はありますか?
あるならそれを教えてください。僕がずっと求めているのはそれなのですから」
と、口には出さないもののずっとそういう態度で、人を相手にしていなかった。

それでもやはり、人生経験がものを言う場合は多いし、
僕にない経験をした人からはためになるものはいくつも教えてもらえるのだ。
先人が遺した知恵があるにもかかわらず
それをあえて避けて一人で行く者はやはりどこか愚か者なのだろう。
どんなものからでもどんな人からでもこちらに見る目さえあれば
学べることはあるはずだ。
学べなければそれはこちらの技量が足りないのだ。

と、そう思うにようになってから、全くそうできない自分を初めて知った。
本当に僕は人間として幼いらしい。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/11 16:26
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