スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

引き出しの下の面倒

とりあえず気を付けるべきこと。

物に愛情を込める。触るとき、使うときなど。
常に動作に気を配る。
何事も適当にやらない。
言葉に気を付ける。

要するに
どれだけ流れていく生をないがしろにしないか。
気を集中できるか。

僕はよく一時的なことをするのを億劫がる。
例えば、物を取ろうと引き出しを開ける。
取りたいものが一番下にあるのはわかっているが、
上にあるものをわざわざ取り出すという行為が面倒に思えて
上のものをそのままにしながら強引に下の物を取る。
でも、かえって手間取ったり、引き出しの中がグジャグジャになったりする。
そういう失敗がよくある。

上に乗っている物を取り出す労力とか、かかる時間のことを考えて
面倒だと感じているというよりも、「すぐに戻す」という事実に対して
面倒だと感じる。
でもこれではいけない。

1、2分だけの物の移動を面倒がるというのと
7、80年だけの人生を面倒がるのとでは程度の違いでしかない。
物を「どうせまたすぐに戻す」と感じて面倒がるのと
人生を「どうせいつか死ぬ」と感じて面倒がるのとは本質的には同じことだ。
だからちょっとしたことを面倒がるというのは
人生を面倒がっているのと同じことなのだ。
いずれ死ぬからと手抜きで生きる人はあまりないだろうが、
一々の物事を面倒がって生きていくなら、それはやはり人生の手抜きだ。
人生と言ってもその中身は「行い」の集まりなのだから。

食事というのも面倒なことだ。
死ぬまでに何回食事をしなければならない。
食べてすぐ無くなるにもかかわらず、作る。
食べてすぐ洗わないといけなくなるにもかかわらず、器に入れる。
それを1日何回もやっている主婦の人などは大したものだ。
掃除にしてもそう。すぐに汚くなる。

よく今の世の中が昔よりも生きづらくなったと言うが、
もしそうなのだとしたらその理由は何か。
とりあえず一つ挙げるとしたら、「効率的」という言葉が
恐ろしい魔力を持つ言葉となったことではないかと僕は思う。

「これが効率的・合理的」と言われるともうそれを覆せなくなる。
無理に覆そうとすると「酔狂」「変わり者」などと言われる。
自分でもそう思い、「趣味でやってるんです、道楽です」などと言う。
だが、効率と言うなら、人間はどうせ死ぬのだから、
それなら生まれた瞬間に誰かに殺してもらうのが一番効率がいい。
そういう見方も成り立つ。生→死の時間短縮だ。
人間は地球にとってガンのような存在だという意見を持つ場合なら、
なおさら早く死んでしまうのが地球のためでもある。

「効率的」というのはそういうことだ。
皆それはおかしいと思いながらも、それに対して本気で反論することができない。
これが一番の生きづらさだろう。
皆本心に自信を持てない。「効率」「理」と言われると本心が引っ込む。
でも「効率」なんて本当はそんな恐ろしい言葉ではないのだ。
人間は効率のために生きるのではない。

引き出しの下の物を取るときに上の物をどかすのは
「結果的にその方が効率がいい」からではなく、
その一つの行動が人生のすべてだからだ。
それがすべてだとわかるなら決して適当にはしない。
わからないから適当にする。

明日必ず死ぬとわかっていたとしても、
きっとご飯を食べるし、風呂にも入る。
それができない場合は動揺が収まらならい場合であって、
動揺全くなく「どうせ死ぬのだからもう必要ないや」と割り切る人はきっといない。
明日死ぬにもかかわらずご飯を食べ風呂に入るのは、
決して空腹・不潔が不快だからというのが第一義としてあるのではなく、
それがその都度の務めだからだ。
その都度の務めを否定することは人生すべてを否定することになる。
死ぬ前ならそれが誰でもわかる。
人生とは「この瞬間」のことだと思った方がいい。
時間として考えない方がいい。

僕はよく「ながら○○」というのをやるが、
あれも効率に囚われているからだ。
「この待ち時間、他のことをしていた方がいい」と。
でもそんなに急ぐ理由は本当は何もないのだ。大抵の場合。
一度に複数のことをした方がたくさんのことができると言うが、
別にそもそもたくさんのことをする必要はないのだ。
決められた時間にこれだけの量を、という条件がないものならば。
「効率」という言葉のせいで
「早く動かないといけない」「多く経験するのが良い」と思わされているが
本当はそんなことはない。
何事も丁寧にやるべき。
最初はゆっくりでも洗練されてくれば早くなる。
洗練された動きというのは見た目はゆっくりでも案外と早いものだ。
だから肝心なのは、「丁寧」にやる中で気にするべき一つの項目として
「効率」があるということ。
効率というのは本来そう使われるべき言葉だ。
別に効率さんに悪気があるわけでもないし、価値がないわけでもない。
使い手の力量が足らないだけ。
スポンサーサイト
人生観 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2014/02/04 20:19
コメント
効率を求めるのは
効率を求めるのは、個人ではないのだと思います。
個人を束ねた集団を動かそうとする時、そこに効率性が要求されるのだと思います。

効率性を必要とするのは、社会であって、個人ではない。
厳密に言うと、「社会」が何か考えて何かを求める、ということはあり得ないので、
実際には、「社会」を担う個人が、その目的のために「社会」に対して効率性を要求する。
その延長で、「社会」に属する個人が効率性を求められる。
そういう図式ではないかと思います。

平たく言えば、
国や社会を成り立たせるためには効率性は必要。
一個人の人生それぞれと向き合っていたら、とても国や社会をまとめることはできませんから。
(国や社会から見た時の)ディテールは無視する必要があるわけです。

・・・まあ、確かに言えることは、
僕には政治家は向いていない、ということでしょうか(笑)。
理想です
まこっちゃさん、いつもコメント有難うございます。

おっしゃる通りですね。
効率性を求めるのは社会です。

僕は「効率」という言葉には必要以上の重みが持たされているんじゃないかなと思います。

「個人のことばかり考えていては社会は成り立たない、それでは理に合わない」と言われると
なるほど確かにそうだなぁと思えてそれ以上何も言えなくなります。
社会がなければ自分も生きてはいけませんから。

ここで人を黙らせる「効率性」「合理的」という言葉が怖い言葉だと思います。
「これが理だ」と言われると身動きがとれなくなり、それに沿うしか道がありません。
あえて外れる者は「冒険者」と言われます。
本人に「冒険者」との自覚があるならそれはやはり理を気にして冷や汗をかきながらの旅でしょう。
僕は「効率」「合理」も本来そんなに人を縛る言葉ではないと思います。
こちらを縛っていくようなものではなく、こちらが使っていくべき言葉だと。
ですが、まあ理想です。
たぶんですが
「効率」という言葉に、実際に生きる上で必要な分以上の重みを持たせているのも
結局のところは社会だと思います。
社会にとっては、その重みを持たせることが必要なのだ、
と言い換えることもできると思います。

「自分にとって必要なもの」と、
「社会にとって必要なもの」は、
重なる部分もあれば、違う部分もある。
もともと(深く関わりあっているものの)独立したものなのだ、という認識に立つことが
まず重要なのではないでしょうか。

・・・と言っても、
このことをゆるしてしまうと、危険な思想も看過することにもなってしまいかねないので、
やはり公の場ではあまり言うべきでないことなのだ
とは思います。
実際どう動くかは難しいです
>「自分にとって必要なもの」と、
「社会にとって必要なもの」は、
重なる部分もあれば、違う部分もある。

なるほど。確かにそうですね。
そこで葛藤が起きるんですよね。どう処していくべきかと。
自分が正しいと思うものを社会に強引に求めていくと当然摩擦が起きますし、
自分の本意ではないことをしなければならないときもある。
理想があってもそれをどう実際場面で活かしていくか、そこが難しく苦しいんですよね。

ただ、社会の抱く効率観念が個人を圧迫するという見方もできますが、
社会は各個人の投影物でもあり、個人の持つ圧迫感が社会をそうさせているとする見方もあると思います。

よく最近の世の中は功利主義でいけないとか言いますが、
それは社会が悪いのではなくて、功利主義より良いものを見出せない各個人の責任とも言えるんじゃないかなと思います。
「利益が大切」「効率よくしよう」と言われると、うん、確かにそうだ、と思いますから、堂々と反論できません。それの正しさを認めているわけですから。
そんな中で「功利主義が悪い」といくら言ったところで功利主義社会はなくならないと思います。

まぁ、僕は「功利」「効率」が悪いものとは思っていません。
何が悪いかと言うなら、それらを正常に働かせるだけの心を持っていない僕達が悪いと思います。
悪いと言っても断罪しているわけではなくて、責任の所在の確認ですが。
「悪」というより「未成熟」ですね。
確かにそうですね
行き着くところ、個人の責任なのだと思います。
そもそも「社会」そのものは何の意志も意図も持ちませんので。

ただ、元を辿れば個人の意志の集合体であるとしても、
その社会が振る舞う(かのように見える)動きは、一個人の手に負える範疇を超えています。

集団心理の例なんかも、その典型ですよね。
閉鎖的空間で、火事などの非常事態の時に出口に殺到してしまい、
結局、実際に逃げられたはずの人数より多くの人が犠牲になってしまうのは、
「集団」が意志を持つからではなく、つまるところ個人の意志や焦りなどの感情のせいになるわけですが、
それを個人の責任だと言い切るのも、少々酷な気がします。

集団の一員として、一個人がまず意識を変えていかなければ、集団も変わらない。
これは正論です。僕もそう思っています。
でも、それを貫けるほど強くないのもまた人間の本質だと思うのです。
だからこそ、ビジネスで言うところの「法人」のように、
まるで集団組織が意志を持つかのような処置をすることによって、
それがうまく潤滑油として機能している、という一面もあるのではないでしょうか。

正直、法的に認められ、機能してしまっているから文句は言えませんが、
「法人」という概念は、僕から見れば詐欺的にすら感じられます。
でも、会社で働いていて思うのは、これはよくできた嘘で、
これが最善なのかはわかりませんが、少なくとも今のところ最適解なのではないか、とは思う今日この頃です。

三十歳を過ぎて、僕も、物事をごまかすのがうまくなってしまった
ということなのかもしれませんが(苦笑)。
そうなんですよね。
「個人の責任だ」というと、誰が悪いのか特定して、そいつを非難しよう。そして自分の正当性を確保しよう。という心理が働きますから(いわゆる犯人探しですね)、
そういう頭で「あの人が悪い」「自分が悪い」と言ったり言われたりすると、まあよくないことの方が多い気がします。

お示し下さった火事の例ですが、それも「誰が悪いか」という視点で考えるとあまり良いことはないように思います。
「現場にいた○○さんだ」「いや建物の設計をした○○だ」とか言っても争いになるだけです。
皆誰かのせいにしないと心が落ち着かないんだと思います。不慮の事故(運命は自分を裏切る)とは思いたくないですから。
こんなことを呑気に言っていますが、実際それで自分の家族を亡くしてしまったりすると
当然僕はこんなことを言っていられなくなると思います。
ですが、やはりそれは冷静になれるだけの技術が僕にない、ということが事実としてあるのだと
今の僕はそのときの仮の自分に向かって言います。今の僕の責任として。

どう説明していいかわかりませんが、筋を持つということです。
犯人探しの心で「自分が悪い」と言うのではなくて、「筋」から見て「自分が悪い」と見る、
ということですがやはり説明にはなっていませんね。すみません。

勿論、実際起きた火事について責任の所在がどこにあるかを調べることは必要ですが、
それは犯人を決めて心をすっきりさせるためではなくて、あくまで今後のために調査すべきです。
でも、第三者はともかく当事者達がそんなに冷静ではいられないのは、それだけ心ができていないという面はやはりあります。
それを当事者に告げるということではなくて、僕の筋として生きていくということではありますが。
それにその筋を押さえていると、冷静でいられず誰かを恨まねば生きていけなくなるというのは、その人にとって非常に悲しいことだという気が段々してきます。
その後十何年かもしくは死ぬまでの間、ずっと人を恨み続けなければならないとしたら、
これは非常に可哀想で残念なことです。
本当にその人の幸せを願うなら、加害者を償わせ謝罪をさせることを望むよりも、
それを忘れ人を恨まずにいられるようになることを願うべきだと思います。
あくまでも筋としては、ですが。
心が未熟だというのは悪だというより、(本人にとって)悲しいことだと思います。
そういうニュアンスで捉えて下さったらと思います。

ただのキレイゴトだと人は言うでしょうが、理想のないのは背骨のないのと同じで、
一人で立てませんし歩けません。
理想は実現するために持つ(実現すればいらなくなる)のではなくて、
それを背骨として生きる、そのために持つべきだと僕は思います。

筋、筋と言いながら話の筋はいつも滅茶苦茶で恐縮です。
いつも話しながら自分の考えを確かめさせてもらっています。有難うございます。
なるほど
いえ、大変よくわかりました。
かめさんが、どの辺について譲れない思いを抱えていらっしゃるのかが。

普段、ここまで粘り強く説明して頂けるかたは、なかなかいらっしゃらないので
物分りの悪い(空気の読めない?)僕には、大変ありがたいです。

個人に責任を問うのは酷だとしても、
現にそのように構成されている、この現実から目を逸らすべきでない、
とか、
その現実を(できれば)しっかり踏まえたほうが、文字通りの意味で現実的だ、
といったことでしょうか。

僕も、基本的には筋を通したい性格なので、
よくわかります。
・・・難しいですよね。人間って。
どうしても抜き差しならない感情を持っていますから。
打ちひしがれている人を前にすると、正論すらも言ってはならない(言えなくなってしまう)状況が生まれます。
そういう状況であってもなお言うべきだ、という考え方もあるでしょうし、
そういう状況は特例的に扱うべきだ、という意見もあるでしょう。

行き着くところ、どう判断するかはその人のカラーの問題であって、
「正しい」「間違っている」の問題ではないような気もします。
原点
ご理解いただき、感謝します。
概ねそのようなことです。
積極的にそうしていこうというよりは、原点に還るというイメージでしょうか。
その原点を持つということですね。

おっしゃるように、落ち着くところはその人のカラーだと思いますので、
いかにその人がそれを磨いていく意識を持つかが大事なんじゃないかなと、僕はそれを心がけたいなと思います。

長々とお相手下さり有り難うございました。
頭の整理が少し捗りました。

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。