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外れた感

外れたとか、どうやって戻るかとかブツブツ言いながら色々やっているが、
そうやって一人であれこれ考えていること自体がよくない。

外れたと思うのが勘違い。
外れようがないから。
外れたと思うから本当にそんな気がしてくる。

外れたとか言って騒いでいる自分を俯瞰すると、そこで見えてくるのは
世界から切り離されているとの無意識の意識が僕が迷わせているということ。
外れたと感じ、戻ろうとする「努力」、戻り方を云々する「努力」、
状況を把握しようとする「努力」。
この努力というのはどうにかしようとの思い。
でもそうすると無意識の内に世界に背を向けてしまっている。
開拓とかはそうだろう。今までの場所に背を向けないと進めない。
しかし僕がここで求めているのは戻ることであって
スタート地点から遠ざかって行くことではない。
戻ることに努力するのは本末転倒。

大雑把に言って何が人を駆り立てるかというと、それは淋しさだろう。
本人に自覚はなくとも、何かに駆り立てられている人は
皆世界からの孤立を負っている。
孤立した淋しさから、ああしようこうしようと色々思い悩むことになる。
僕も戻ろう戻ろうと思い悩むことになる。

が、外れたと思ったこと自体が既に敵の見せた幻だったのだ。

最近、皆自由に神など信仰してもいいのではないかと思う。ユルく。
僕も。
昔は、信仰するかしないかも大きな問題だし、
もしするとしたら正しいものでなければならないという思いがあった。
最善でないものを信仰してもしょうがないから。
というより、その行為が「間違い」の烙印を押されることになるからか。
「正解」を求めて神を求めるのに「間違っている」ものに近寄りたいわけがない。

でも今は皆自由にそれぞれの信仰をしたらいいのではと思う。
そんな正解・不正解に怯える必要はない。
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「自己」を見つめる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/20 20:50
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