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目の曇り

・修行、訓練と言っても、世界(神)と対峙して
世界に認めてもらうためにやるのは駄目だ。
あくまでも世界の一部との意識を持つべし。

・世界から試されているという意識を持つよりも、
導かれているという意識を持つ方が害は少ないかもしれない。
僕の場合。
これは試練だとか、成長のために与えて下さったのだとか、
一見残念なこの結果もきっと今の自分にとって最善の経験なのだろうとか、
そういう考え方は昔は反吐が出ると言いたいほど毛嫌いしていたが、
この辺は今一度検討の余地あり。
本当に自分の扱い方というのは死ぬまで工夫していかねばならない様子。

・世界からこの身体を与えられているんだ。
主人がこんなじゃこの身体に申し訳がない。

・神がわからないのに神を信仰することなんてできるわけがないと考えていた。
でも神はわからなくても感じることはできる。ごく普通に。
それが僕にずっとできなかったのは、厳密な定義は知らないが
唯物主義とかいうもののせいだろう。
その心がどれだけ世界も自分の意識も曇らせていることか。
つまらない問題にも思えるが最近その罪の重さをひしひしと感じる。

・世界は自分の味方だという考え方を嫌っていたことの中には、
小さい頃は逆にそういう考えで生きていたが、
生きていく中で世界は決してそんな自分のためにあるものではないと
突き付けられるような経験を重ねる中で、半ばトラウマのようにして
その考え方を忌避するようになった、というのがあると思う。

でも、世界が自分の味方だと思えたら幸せだろうし、
そういう幸せでイキイキした人は周りにも良い影響を与えると思う。
唯物主義的なものの考え方は、
自分を世界とは関係のないほんのつまらない存在だと思わせてしまう、
かなり厄介で、罪の重いものだと思う。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/26 23:00
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