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投影親鸞

今、吉川英治の『親鸞』を読んでいる。
昔この人の『宮本武蔵』を読んで面白かったから。

小説やそれ以外のものを通して、色んな人の親鸞像に触れたことがあるが、
どれも僕の描くそれとは何かが違うような気もする。
と言っても僕の中の「親鸞像」にきちんとした形があるわけではないし、
僕自身の持つ親鸞像も時間が経つにつれて大きく変化しているから当然ではあるか。
ただ、人のを読んでいると、本当にこんな人なのかなぁという気はしてくる。

吉川英治さんの『親鸞』も、今のところ本当にこんな人だったのかなぁという印象がある。
本当にこんなに清い人だったのか。こんなに高潔な人だったのか。と思ってしまう。
生まれながらにして凡人とは違うものを持っていた人。明らかに特異な存在。
本当にそうだったのだろうか。頭の良し悪しは知らないが、本当に高潔な人だったのか。
「真面目」という意味での高潔ならわかる。
非凡なる真面目さ。おかしいと感じるものをそれでもいいやと放っておけない真面目さ。
そういう意味での「人より高潔」ならわかる。僕の描く親鸞像もそれだ。
でもあの幼少の頃からのそれは明らかに「聖なる」と称したくなるそれだ。
正直それはどうなのかなあという気がする。

やっぱり『親鸞』という物語である以上、20代から親鸞は大きく悩むことになる。
救いを求めて行に励む日々。痩せこけた「骨と皮」の身体。
でもどうも吉川さんの描く親鸞はどこか清い。
もしかしたら昔僕が持っていたイメージもそんな感じだったのかもしれない。
でも今の僕の描くイメージはそれとは違う。

人は多分「仏に顔向けできない」ようになると、あんなに清いままではいられない。
「私はなんて醜い人間なんだ!」と言っているその口がどうも清い。
多分、仏に顔向けできなくなってしまった人の持つ自己イメージは、
「汚物」「醜の塊」とでも表現したくなるようなものになる。
僕が自分と重ねすぎなのだろうか。

自己の欺瞞に気付いた時、人は仏の真正面には立てなくなる。
仏と自分との間に壁を設け、「秘密」を作る。
仏には見せられない「本当の自分」が出来上がる(自我意識の強化)。
その「本当の自分」の前には仏はいない。日陰の存在なのだから。
でも吉川作「親鸞」の前にはいつも仏がいる。
そんなことがあり得るのだろうか。

「私は醜い」という懺悔を仏に向かってしている。
はっきり言って、そんなことができている内はまだまだ甘いのではないか。
苦しみが浅いのではないか。
本当のところ、「私の何が醜いか」というと、
仏に懺悔して、聖なる行に打ち込むことによって、「清い自分」になろうとしている、
そのことが何よりも醜いのだから。
「仏に許される自分になる」、それが何よりも醜く汚い心なのだから。
親鸞聖人ほど自己分析の厳しかった人はそうはいないはずで、
その聖人がその程度の自己欺瞞に気がつかないわけがない。
「もっと厳しい行を自らに科すことによって、清浄な身となるのだ」と
何の疑いも持たずにただそんなことを考えていられるわけがない。
「はて、なぜ私は今清浄な身になろうとしているのか。
 なってどうしようというのか。なって何をしたいのだろうか。
 実のところ自分は一体何を求めているのだろうか。」
そんな疑問が頭をよぎらないわけがない。
自分と重ねすぎか?

親鸞聖人は29歳のとき、法然上人に出会うことによって、
その「清さ」を捨てることになる。
それは確かに法然上人の力は大きいものだろうが、
でも、それ以前に親鸞聖人の側にもそれだけの準備がなされていたはずだ。

それなのに、今吉川英治作『親鸞』の29歳時を読んでいるが、
その欺瞞に気付いておられる気配がない。
確かに聖人は六角堂百日参籠をなされた。
でもその行をされながら、「自分はなぜこんなことをしているのだろう」
「こんなことをしてどうにかなろうとしている自分とは一体何なのだろう」
という思いを持たれなかったわけがない。
でも小説には「厳しい覚悟を持って」というくらいにしか書かれていない。

でも、もしかしたら、
小説が親鸞視点で書かれていて、迷い時代には迷いの世界の描写の仕方、
で、一転して安心時代には安心時代の描写の仕方、
つまり「自分が後生大事にしていたあの清さとは、なんて醜いものだったのだろう」
と反省する、という風に切り替える、
そういう仕掛けで書かれている小説なのかもしれない。
でも、残念ながら返却期日が来たので小説は図書館に返してしまった。
これから法然上人に会うという一番いい場面で。
結局吉川さんの意図はわからないまま。またその気になったら続きを読もうと思う。

僕は自分のことをずっと、真面目でそこそこ高潔な人間だと思ってきた。
でも一皮むいてみればそんなものは幻だったと思い知った。
清く正しくそして強く、自分に厳しく他人に優しい人間。
そういう人間になろうとしてきた。そうでないと感じたときはなお一層努力した。
自分を誤魔化さず偽らず、自分がおかしいと思ったことは他人がどう言おうと
曲げずに、それを徹底していくのだ、例え周りに味方が一人もいなくとも、
僕はこれをやらずにはいられないのだ、
これをやめたら僕は僕ではなくなってしまうのだ、そう思って頑張ってきた。

でも、それが「しがみつき」であると知ってしまったとき、
その様が「醜態」であったと知ってしまったとき、人はもう歩けなくなる。
希望も誇りも尊厳も奪われてしまったとき、人はもう歩けなくなる。
誰かに奪われたのではない。自分で偽物であると認めてしまったとき、
もうそちらの方向へ向かうことができなくなる。
自分そのものが欺瞞、
「何かをしようとする」自分そのものが生臭い汚物だと感じてしまったとき、
人はもうどこへも行けなくなる。
どこへも道が伸びておらず、どこからも光が射してこない。
その闇。
その闇がどの「親鸞」にも描かれていない。
それを不満に思う。
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仏教風景 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2014/06/02 23:05
コメント
ニーチェ
『これがニーチェだ』(著:永井均)
という本があります。
新書ですが、読まれたことはあるでしょうか。
自らの醜さに対するかめさんの視点が、これに似ていると思いました。

もし読まれたことがなければ、ぜひご一読ください。
平易に書かれていますが、とてもかゆいところに手が届く書です。
(読み始めは胡散臭く感じましたが、僕にとっては最終的には「かゆいところに手が届」きました。)
トライしてみます
まこっちゃさん、コメントありがとうございます。

その本、読んだことないです。
昔友人が永井均さんの本を読んでいたので、この方は知っているのですが、
本は読んだことはないです。

永井さんに限らず、僕はどうも哲学系の本を読むことができないんですよね。
何度かチャレンジしたことはあるんですが、いつも1ページで力尽きます(笑)

ニーチェについても、すごく興味はあるんです。
「神は死んだ」とか「ニヒリズム」とか、そういう言葉は知っていて、
すごく読みたいんですが、困ったことに読めないんですよね(笑)

ニーチェって確か仏教の影響を強く受けてるんですよね?
それで僕の考えてること(考えたいこと)と似ているのでしょうか。
(僕の考えが仏教的なのかどうかはわかりませんが。)

ご紹介いただいたこの本は平易に書かれているのでしょうか。
せっかくなので、ちょっと読んでみようかと思っています。
ご紹介いただき、どうもありがとうございました。
仏教の影響ですか
仏教の影響のことは知りませんでした。
確かに、従来のキリスト教に対して強烈な批判の視線を向けているので、
そういう面もありそうですが、よく知りません。

もともとニーチェは、敬虔なクリスチャンの家で生まれ、
キリスト教教育をしっかり受けて育ち、
キリスト教を踏まえ、キリスト教的在り方をむしろ徹底しようとした果てに、キリスト教を自壊させていった人、
・・・だと僕は理解しています。

『これがニーチェだ』は、講談社現代新書の本ですが、
哲学用語は(たぶん)ほとんどでてきません。ごく普通の日本語で書かれています。
1ページ・・・の保証ができるかはわかりませんが、
せめて10ページくらいまで読んで頂ければ、あとは最後まで止まらなくなってしまう本だと思います。
買ってみます
ニーチェがクリスチャンで、キリスト教を批判したことは聞いたことがあります。


この本には哲学用語がほとんどでないというのを聞いて安心しました。
それなら読めるでしょうか・・・(笑)
明日か明後日辺りに買ってみようと思います。
読まれましたか
良ければ、感想などお聞かせ頂ければ幸いです。

僕は、哲学に限らず「用語」が嫌いです。
「用語」を使い始めると、話が通じる相手が急に限定されてきます。
どんどん閉じた会話になっていく気がするのです。

言葉(特に文字)の良さの一つは、
1000年前からの歴史についても、言葉によって間接的に知ることができる点です。
それならば、現代人の平均的な言語感覚で理解できるように言葉を選ぶべきだ、と思うのです。
古典の古語が難しいのは仕方ありません。時代が違いますから。
でも、現代人が書いている書物で、やたらと「用語」が多いものは個人的に耐えられません。
「用語」の使用が効率的なのはわかりますが、それならその「用語」の理解が日常語レベルに落とし込める程度の説明書きを、説明する側が先にやるべきだと思うのです。
もちろん、長々と、ではなく端的にです。
それができないのは、説明する側の言語能力(伝える力)の欠如の表れだと僕は思っています。

すみません。
なんかヒートアップしてしまいました(笑)。
「用語」
『これがニーチェだ』、購入しました。
まだ途中ですが、読み始めておりますよ。
読み終わりましたらまた感想をお伝えさせていただきます。


1章を読みまして、これなら確かに読みやすいと感じました。
友人に「永井さんの文章は読みやすいか」と聞いたところ、
「多少癖がある」との返事がきたのでどうだろうかと思っていたのですが、
思ったほど癖は感じなくて、これなら読めそうだと安心しました。

ですが、2章で「ディオニュソスとアポロン」という言葉が出てきて、
急に文章から心が離れてしまいました(笑)
昔からそうなのですが、西洋の文化を全くしらないので、
そういう「用語」に出くわすと一気にクールダウンしてしまうんです。
哲学書を読めないということの理由の一つはそれです。
西洋の文化に対する知識も浅いし、これまでの哲学史で問題とされてきたこと、
彼らが「前提」としていることですら知らず、そこから調べないといけないというので、
「それなら、もういいか」と思ってやめてしまうんです。

まこっちゃさんの『「用語」が嫌い』とのこと、わかる気がします。
僕が嬉しいというのは何か違う気もしますが、なぜか文章を読ませていただいて
「そう言ってもらって嬉しい」と感じました。
ちゃんと、「言葉」というものと真剣に取り組んでらっしゃる方から
そういう言葉が聞けて、一門外漢として嬉しく思いました。


かなりのスローペースですが、読ませていただいてますので、
今度また感想を書かせてもらいますね。

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