スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

伸び伸びした悪人

一体何が人にとって救いなのかというと、
伸び伸びできることが救いなのだ。
間違いのなくなることが救いなのではなく、
伸び伸びと間違えることができるようになることが救いなのだ。
自由に自分であっていいと思えることが救いなのだ。
例え自分が間違いだらけの存在であっても。

生きるとは何か。
生きるとは間違えることだ。
己の間違いに出会っていくことだ。
それを悶え苦しまねばならないことが人間の辛さではあるが、
その間違いの道のりを、自由に伸び伸びと歩むことができるのは
人間のありがたいところでもある。

お釈迦さんは言った。生きるとは苦であると。
それを真似していう。
生きるとは悪であり、自分とは悪なのだ。
しかし自由に悪をやらせてもらえるところに人間の成仏への道がある。

人は悪だから苦しいのではない。
悪であってはならない。自分が悪であるなんて認められない。
そう思わずにいられないから苦しいのだ。
悪が悪を喜んで尽くさせてもらえるようになるとき、人は初めて神仏を知る。
神仏に出会い許されることによって救われるのではない。
自己が自己に甘んじることができたとき、人は自然に両手を合わせ、
神仏を仰ぐようになる。そのことが救いなのだ。
その合わせた両の手の間に神仏はおわす。
神は遠いどこかにいるわけではない。
自我を捨て去ったところにいるのでもない。
自己が自己に出会ったときに、己が神に抱かれてあることを知るのだ。
瞳に神を捉えようとすることをやめ、自己そのものに満足できたとき、
初めて神の存在を知るのだ。
スポンサーサイト
人生観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/04 21:37
コメント
僕には書けない文章です
信仰心を持っておられる(か、信仰心を重んじようとされておられる)かたの書かれる内容だ、
と感じました。
僕のような不信心者には、ここまで踏み込んだ内容の文章は書けません。

神仏を信じる人(あるいは、神仏を重んじようとする人)の肌感覚、というか、迫りくるような強い実感を
垣間見させて頂いた思いがしました。

失礼を承知で申し上げますが、
「芸術的ライブ」を感じました。
事実の伝達よりも、ほとばしるような表現のほうが上回ってしまうような迫力です。
喩えがいまいち悪いですが、
百科事典を読むことよりも、ロックバンドのライブのほうに真実を見てしまうような感覚、
と言えば伝わるでしょうか。

最近、僕も、
真実の追究よりも、表現することのほうに
重心が移ってきている自覚があって、
かめさんの記事を拝見して、「いいなあ」と感じました。
もったいないお言葉。
僕は自分が信仰者なのかどうかというのは、
自分でも疑問に思っています。どうなんでしょう。
今でも、敬虔な信仰者の方を目にすると、
彼らの見ている世界は一体どんなものなのだろうと不思議に思いますし、
間違いなく僕の信仰のようなものは彼らのものとは異なると思います。

ただ、誰にでも神仏に手を合わせたくなる瞬間はあると思いますし、
その瞬間を意図的に文章にしてみた、ということになるかと思います。

でも、神仏と繋がっている状態の方がそうでないときよりも「本当だ」
ということは経験的に理解していますので、
それを目指している、そこに重きをおいているということは言えるかもしれません。

「芸術的ライブ」ですか。
全く失礼ではありませんよ。むしろ照れくさいです。そんなに大層なものではないと思います。
ただ無責任になっただけかもしれません。
まこっちゃさんも、ご自身のブログが様変わりしてきたとおっしゃってましたよね。
「変わる」というのは面白いものですよね。

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。