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夢の、過失の、痛いの

今日の夢。
兄が溺れていた。
なんとか助け出したがもう手遅れかもしれない。
兄が湖の中にいることは一度確認していた。
でも溺れているとは思っていなかった。
助け出してから、なぜあのとき気が付かなかったのだろうと己れを責めた。
その悲しみ。痛み。


思えば、僕がずっと抱えてきたのは「悩み」「やりきれなさ」「むなしさ」「モヤモヤ」であって、
「痛み」「悲しみ」ではない。
確かに僕にも耐え難い「悲しみ」も「痛み」もある。ここには書かないが。
でも僕の日常を占めているのは「悩み」であって「痛み」ではない。

世の中には本当に大きな「痛み」を持った人がいる。
自分の過失で我が子を失ってしまった人。
震災で家族を失った人。
その人達の「痛み」に直面したとき、一体僕はどう「ある」のだろうか。

僕は人間にとって一番厄介な感情は罪悪感だと思っている。
自分が被害者で加害者が別にあるなら問題ない。
問題ないと言っては失礼かもしれないが、
「あいつのせいで」と思える相手があるなら、それはある種まだ救いがあるのだ。
でも、自分が加害者である場合。そしてその罪から自分を傷つけている場合。
あいつのせいで、とは思えないのだ。自分が悪いとわかっているのだから。
どこにもぶつけられない感情。内向するエネルギーが心身を蝕んでいく。
これが僕の一番の「辛さ」。

でも、自らの過失で自らの「悲しみ」を作り出してしまった場合。
上の「我が子」の例のような。
責める相手がいない。自分が悪いのだから。
自分を呪う。
自分を殺したくなる。でも殺したところでそれが逃げであることはわかっている。
生きても罪。死んでも罪。どこにも生き場がない。
きっとそんな苦悶があるだろう。
それは罪悪感も同じ。
でも違うのは、それが堪らなく「痛い」ということ。
涙に直結するような、鋭い痛み。
罪悪感は、鈍い痛み。
「悲しみ」の人は「辛くはない」のだ。
「辛い」のは生きようとしている人だけ。生きるのが辛いのだ。
その点罪人は生きようとの意志があるのだ。
「生きる」のが「辛い」のだ。
でも、「悲しみ」の人は、ただただ「痛い」のだ。
どうしようもなく「痛い」のだ。
もしかしたら上記の苦悶もなく、ただただ「痛み」の中にあるのかもしれない。

そんな人がいるこの世界。
そんな人を前にして、僕は一体どうある。
そんな人がいることを知らずして、僕は今一体どうある。
そんな人がいるこの世界で、僕は今一体どうある。
そんな人がいることに思い至らなくて、人生観も何もない。
「生きたい」人生観はもう終わりにしたい。
「生きている」人生観。「ともに生きている」人生観。それだ。

生きたい。でもそれを邪魔するものがたくさんある。
「それをどうするか」。
それはもう終わりにしたい。

「痛み」のある世界。
その世界で「どうあるか」。
「どうあるべきか」ではなく、「どうあるか」。事実今自分は「どうあるか」。
そういう世界観。人生観。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/21 15:33
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