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道を歩む

何が正しくて、何が間違っているか、と言っても、
そこに基準となるものがなければ、何を言っても薄っぺらい。

「こうするべきだ」「いや、ああするべきだ」
そんなこといくら言っていても、基準がなければそれは不毛な争いだ。
逆に基準があるなら、人に批判されてもそれでいいのだ。

道心があれば何が正しくて何が正しくないかが定まる。
道心とは、それに則って生きていくということだからだ。
それに反しているものは誤りであり、過ちとなる。
だから反しないように常に点検して生きていくことになる。
それがないのにあれが正しいこれが正しいと言ったところで、
それは実に軽い、フワフワした言葉なのだ。どれだけの理屈を込めようとも。

と、そんなことを考えていて、これは西洋的な神への信仰に似ているなと気が付いた。
神の是を是とし、神の非を非とする。
何を賞賛し、何を罰するかは神の定めたところに従って決められる。
ここに秩序が成立し、倫理も成立する。
清く正しく生きるべき方向が示される。

西洋で言う神への信仰というものが東洋で言う道心ということにあたるのかもしれない。
少なくとも、近いものではありそう。
キリスト教などでは道心ということは言われているのだろうか。

西洋社会において、今はどうかしらないが、神を信仰することはごく普通のことなんだろう。
皆、神を信仰している。
東洋においては、道心を持つに至るところまで行った人はほんの一握り。
「宗教家」の中でもほんのほんの一握り。
西洋では、信仰が広く行き渡っている。信仰の門の中へは入りやすい。
でも、全体的に見ればそれは浅い信仰かもしれない。
東洋では、信仰の門の中へは入りにくい。
そのかわり、入ってしまった人たちの信仰は堅く深い。

東洋には唯一絶対の神はいない。
だから、道心といっても、何を道とするかは「任意」のものとなる。
しかしお釈迦さんの最期の言葉は「自灯明 法灯明」だった。
「自らを拠り所とし、法を拠り所とせよ」と。
つまり、自=法(絶対)なのだ。
自と法がイコールで結べるようになったとき、道心の芽が出、そこに道が開かれる。
そしてその道を拓いていくことになる。

それは任意の道ではない。
それが最も自然な道なのだ。
それが最も自己である道なのだ。

人は容易に自己を手放す。
それを手放さないようにといつも鍛練することが道を歩むということなのだろう。
自己が自己に還ろうとすることに理由はない。
「それは正しいのか。それは絶対的な道なのか」といくら言われたところで、
そんなことはその人のうわ言にしか聞こえない。
その人のいう「絶対」と自分の歩む「絶対」と、どちらに実があるかは明らかだからだ。
もし真に受けてしまったときは、それを恥とする。
自己をお留守にしたことを恥とする。
それが道を歩むということだと思う。
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人生観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/23 22:00
コメント
ニーチェも
ニーチェも、もともとキリスト教の神を信仰していて(あるいは、信仰している家庭で育って)
それに沿って誠実に世界を見つめることに徹し、その結果、
キリスト教への懐疑に至った。といったことが、永井均著『これがニーチェだ』に書かれていた気がします。

東洋思想のほうが懐が深い、と感じます。
だからこそ、己の思想を他に強制することなく、しかし脈々と受け継がれてきたのだと思います。
キリスト教は、源流を辿れば排他的な思想です。
だからこそ広めようと考えた。
多くの人をキリスト教の仲間に導き入れようとした。
排他的ながらも、己を増やし、拡大しようとした。
それが善だと思ったのでしょう。

東洋思想の場合、ありのままをよしとする傾向が強いように感じられます。
そのため、世界的な意味でのいわゆる「布教」活動が、西洋ほど盛んではないのだと思います。
その代わり、「お祭り」「初詣」のように、
信者でない人でもそれとなく触れる機会があり、楽しめるようになっている。

同じ「宗教」という括りでいいのか、
と思うほどの違いを感じます。
言葉にしない
そうですよね。
同じく「宗教」として括っていいのかと思うほどに違いますよね。
「宗教」という言葉は明治時代にReligionの訳語として作られた言葉だそうです。
確か、「仏教」という言葉も最近できたもので、昔は「仏道」といっていたと聞いた記憶があります。

僕にも、「道」というだけあって東洋の宗教は個人が深めていく、というイメージがあります。
「大乗仏教」という運動は起こりましたが、西洋ほどの布教のイメージはないですよね。


「お祭り」「初詣」で神道を連想したのですが、
神道は「言挙げせぬ宗教」らしく、教え(と言っていいかわかりませんが)を言葉にしないそうです。
仏教は日本にとっては輸入したものですし、神道の方が「土着」と言っていいと思いますが、
日本の根幹にあるのが「言葉にしない」という思想であるというのは、
なかなか興味深いことです。
これでは、布教などしようがありませんよね。

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