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泥棒どうぞ

良寛というお坊さんのあるエピソード。
ある夜、良寛さんの家に泥棒が入った。
泥棒は金になるものはないかと部屋を物色するも、金目のものは見当たらない。
手ぶらで帰ることができず、仕方なく良寛さんの寝ている布団を盗んで帰った。
良寛さんは布団を奪われつつも、目を覚ましては泥棒を驚かしてしまうことになり
可哀想だということで、泥棒が帰るまで寝たふりをしていた。
というエピソード。

それから、これも良寛さんだったか誰だったか、
もしかしたらエピソード自体を間違って覚えているかもしれない、
そんなおぼろげな記憶だが、あるエピソード。
ある人の家の米蔵に泥棒が入った。
偶然その現場に出くわしてしまったその人は、泥棒に向かって、
「そんなにいっぺんに米俵を運んでは疲れてしまうだろう。
 またこんな夜中に大量の米俵を運んでいては世間の人に怪しまれる。
 この米は明日私がすべてお金にかえておくから、
 また明日取りにきなさい。今日のところはもうお帰り。」
泥棒は半信半疑で翌日家に来てみると、ちゃんとお金にかえてあった、という話。

こういうのを聞くと、いや、これは馬鹿な行いだろう、と思えてくる。
そもそも宗教家なら泥棒に人の道を説くべきだ。
その泥棒を救ってあげるべきではなかったのか、とか思えてくる。
これが仏教の答えなのか。これが仏教の説く正解なのか。と。

でも、これは正解でも何でもないと僕は思う。
これはただこの人達の「性格」の問題だと思う。

「正しい行い」「正しい人間像」を突き詰めていくと、
やがて一つの答えに行きつくような気がする。
でも、そうすると「正しい人」達は皆同じようなことを考え、
同じような行いをするのだろうか、という気がしてくる。
個性がないな、と。

でも、そんなことはないのだろう。
むしろ、よくできた人ほど個性的になると思う。
良寛さんが泥棒を気遣ったのは良寛さんの優しさだ。
別に正解でもなんでもないし、正解であろうともしていない。

一般的に「高尚な人」のイメージとして、悪人には教えを説き、悔い改めさせるというものがある。
でも、これは言ってしまえばお節介だろう。
本当に高尚な人ほど己を失わないように気を付けているものだ。
ふと宙に浮いた「善悪」という観念に足元を掬われて、自己を失うことはしない。
その上で、その人の性格として、泥棒に盗ませる人もあれば、教えを説く人もあり、
問答無用に打ちのめす人もあり、そこに個性が表れる。
そして見る人はそこに親しみと尊崇の念を抱く。

高尚な人とは自分の誠丸出しの人なのだ。
俗人は自分の誠を着飾ってしまうが故に俗人なのだ。
そしてそんな俗な自分だからこそ、高尚な人に触れると
そこに聖なるものを見、思わず敬意を抱いてしまうのだ。
高尚な人の漂わせるオーラが、己を着飾らないようにとの日々の訓練から
にじみ出ているものであることをどこかで感じているからこそ、敬意を抱くのだ。
そしておそらく高尚な人同士が出会っても、お互いに敬意を抱き合い、頭を下げるのだ。
皆根っこでは俗人であるから、その人の背後に物言わぬ鍛練の跡を見、
自然と頭が下がるのだ。

大体、人に最も善い影響を与える人というのは、
「正しい人」ではなく、良寛さんのような「誠丸出しの人」じゃないのか。
そういう人に出逢ってこそ、本当に悔い改めようとの意志が芽生える。
どう悔い改めるかは問題ではない。悔い改めようとの気持ちが尊いのだ。
そんな気持ちはどんな人にでもあるのだ。ただ出てこないだけなのだ。
出てくるだけの縁がなかっただけなのだ。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/24 20:13
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