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確認

怖い。怖い!
世界が崩れるのが。
怖い!怖い!怖い!
やめて!これ以上もう何も奪わないで!

昨晩急にそんな気分に襲われた。
あの気持ちをずっと隠してきたんだ。
ずっと克服しようとしてきたんだ。
あれのない自分になろうとしてきたんだ。

ずっとそれを問題にしていながら、ずっとそれを見ないでおこうとしてきた。

多分、あれが強烈に来すぎてしまったら精神病になるんだろう。
自我がストッパーになれずに。
そうかと言って自我がのさばりすぎても気分は晴れない。

自分はずっと何を隠そうとしてきたか。
改めて確認。
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つぶやき | コメント(8) | トラックバック(0) | 2014/07/06 16:06
コメント
僕の場合
「それ」から目をそむけても、「それ」がなくなるわけではない、
と知っていました。
(ある人は、そのことも含めて「思い込み」だと言いますが、僕にはそう思えませんでした。)
だから、「それ」から目をそむけたまま「それ」を迎えることのほうが、僕にとっては怖かったのです。
壊れそうになりながらも、折に触れて「それ」と向き合ってきました。

あまりにも怖いので、積極的に向き合ってきた、と言えば美化しすぎであり嘘になります。
でも、逃げることのほうが嫌でした。
「それ」を迎えるまでに残された時間が有限である以上、そんな呑気なことは言っていられない、
という気持ちでした。

「それ」を自覚的に怖れるようになったのは中学2年生の時からです。
それから20年近く経って思うのは、
「時間が経つこと」による慣れの威力です。
今は、当初ほど取り乱すことは無くなりました。
根本的な解決は何も得られていないのに、です。
これはこれで、僕にとっては予想外の、大きな収穫でした。

もう一つ、今、「それ」に対して思うのは、
誰も「それ」について明確な答えを教えてくれない、
ということです。
僕は、「それ」を意識するからこそ、今こうして生きている今のかけがえのなさを感じています。
だから、この貴重な時間を浪費したくありません。
限られた時間を大切にしたい。
でも、「それ」をなんとか理解してやる、という目標こそは、
この大切な時間を賭けるに値するテーマだと思えるのです。
消滅に向かっていくこの自分は一体なんなのか、この世界はなんなのか。
アンパンマンのテーマソングじゃないですが、
「なんのために生まれて なんのために死ぬのか わからないまま終わる そんなのは嫌」なんです。

正直、勝算は低いと思っています。
でもまだ30歳を過ぎたばかりです。
自分の一生に与えられているであろう時間を基準にすれば、
まだ残り半分あります。
この半分を、このテーマに賭けなくて何に費やすのか、
という闘志がわいてきます。
死に際に気づくよりは、幸せだと思えませんか。
まだ可能性が、余地が、残されているんです。

僕は、見つけてやろうと思っています。
「それ」がなんなのか。
・・・もし良ければ、これからも今まで通り、かめさんのお力も貸して頂ければ幸いです。
実際、一人で格闘していくには強大すぎる対象なので。
この敵は一筋縄ではいかないでしょうね
ありがたいお言葉です。
僕の力を貸すことはできるかわかりませんが、
同じ悩みを持つ者として共に悩むことはできると思います。
なので、僕の「感じ」を書いてみますね。


「それ」があるからこそ今をかけがえのないものと感じるということですが、
何度かまこっちゃさんの口からそういう言葉を聞くことがありますが、
僕にはあまりそういう感じは湧かないのですよね。
僕の場合、「それ」が「今」でさえも奪ってしまうんです。
「残りの寿命」にしてもそうです。

「それ」の中には「いつ来るかわからない」「まったくの不意打ち」
という属性があるような気がします。
明日も自分が生きているという保証もないし、いつ自分の大切な人を失ってしまうかわからない、という恐怖と不安。
そんな世界の中で生きているという、自分の頼りなさ。世界の頼りなさ。
「今」が成り立たないんですよね。「今」と言って立てる足場がない。
「今」がないから、「あそこ」を目指して走ることすらできない。

僕の中では「それ」は「虚無」という感じなのですが、
「虚無」は今ここに立っている自分自身でさえも無意味化・無力化します。
僕らが解決しようと目指しているものが明確な「ゴール」と言えるものなのだとしたら、
そこへ辿り着くべく自分自身を奮い立たせることもできるのですが、
この「虚無」というものは、今走っているこの足でさえも、この大地でさえも、
無力化し、そこに「立つ」ということさえも許してくれません。

どこかへ向かうにはここに立っていないとできません。
でも、この「虚無」は「ここ」でさえも許してくれません。
スタートさえ切らせてくれないのですね。
せめて走ることさえできれば、その他のさまざまな困難と同様、
「頑張ればなんとなる」と励ますこともできるのですが。

もしかしたらまこっちゃさんが勝算は低いとおっしゃることの理由の一つにも、
それがあったりはしないでしょうか?
やっぱり、「多分、無理だろう」と、これがわかっているというのは、
中々きついことですよね。


まったく希望もないことを書いてしまいましたが(笑)
でも、自分のためにここをきちっと押さえておこうと思います。
「そこで、こう考えました」とすぐ言ってしまいそうになりますので。
走れないのにすぐ走ったつもりになろうとします。
でも走れていないのは心のどこかでわかっているから、
いつまでたっても心は晴れないまま。

だから、ここが原点です。
「なんとかしたい!」より先にある、「嫌だ!」。
「早くホッとしたい」より純度の高い言葉、「嫌だ!」。
それが僕の全てです。
あえて「敵」とは表現しませんでした。
僕の感覚では、
いずれは「味方」にしたいな、という気持ちがあります。
だから、あえて「敵」とは表現しませんでした。
まるで敵視しているような言い回しになったのは、それだけ強大に感じていたからだと思います。

なるほど、
かめさんと僕の温度差の在り処が、ちょっと見えてきました。
頂いた返信を拝見した印象では、
かめさんのほうが、「それ」に対して明確な認識を持っておられるように感じました。
「虚無」と仰いますが、はたしてそれはどのようなものですか?
怖くて仕方ないのは確かだし、僕は死後の世界は無いと(なぜだか)思っているので、
僕も世間一般の人たちよりは「それ」に対して明確な意識を(なぜだか)持ってしまっているほうだと思います。
それにしても、実のところ、僕には「それ」がよくわからないのです。

勝算が低い、と言った理由には、
確かにおっしゃるような部分もあります。
「たぶん無理だろう」とわかっていながらやるのは、本当にきついです。
でも、「無理だと決まったわけじゃない」とも思っています。

これが希望的観測なのか、本心からそう思っているのか、
もはや自分でもわかりませんが、
少なくとも自覚の上では、そう思っているんです。
だからこそ、低い可能性でも、賭ける価値がある。
そう思っています。
結局何なのでしょう
まこっちゃさんの言葉に対する敏感さ、感服いたします。
僕もコメントを投稿するときに「敵」でいいのかなと思いながらも
そのまま普通に投稿しました。
「それ」と言っていますが、結局のところ、何なのでしょうね。
「それ」をある程度わかっているような感じで話している僕の方がきっと危ういのでしょうね。

僕らにこういう思いを抱かせる客観的な事実を指しているようでもあり、
湧き上がる僕らの側の感情を指しているようでもあり。
僕は「虚無」という言葉を使いましたが、それは事実としての「虚無」
なのか、
それとも僕の抱く「虚無感」なのか。
そこのところもはっきりしません。
多分、それゆえ僕はいつもモヤモヤしてるんだと思います。

僕はいつも宗教的な視点から考えているのですが、心理学的な視点も一応カードとしては持っています。
これが心理学一般の意見だとは思わないですが、こういうことを言っている人はいます。

自我というのは「普通」を「普通」と思う機能と言ってもいいと思いますが、
大体思春期くらいになると子どもから大人に変化する時期でもあるので、
自我がかなり不安定になるそうです。
そのときに、「普通」が「普通」と思えなくなったりしてしまうんですね。
「普通」というものが結構無理やりでっち上げて作ったようなところがありますしね。
ですから、「その体験」は大小はあるでしょうが、誰にでもあるもので、
それがあまりにも強烈に来た人は大人になった後も大きい部分として、
心に残るのではないでしょうか。
ある意味、「普通・当然」フィルターを外して見た物の方が真実だとは言えますしね。
「そっちが真実だ」という実感があるため、それから離れられなくなる人が出てくるのは当然。
と、こういう見方も一応あるということです。


僕の感じている「虚無」の説明、ということですが、
これは中々に難しいのですがちょっと書いてみます。

僕の中では「僕」すらあやふやなんです。
だから、あやふやなものが何をやっても、全部あやふやなんです。
こういう言い方もできます。
例えば、敵が殴りかかってきたとします。
そこでこちらが両足を踏ん張って耐えれば、相手のパンチを受け止めることもできます。
でも、それがもし泥沼の上だったとしたら。宇宙空間だったとしたら。
殴る方も殴られる方も、どこにも力をぶつけられず、
双方もつれ合い、敵も自分もなくもはや「混沌」としか言いようのない「状況」になると思います。
僕の感じる「虚無」というのはそういう感じです。
ですから、「虚無」というのは、僕の「内」でのことではないですね。
今書いていてそう思いました。
僕でもなく敵でもなく、全て呑み込む混沌とした「場」、
すべてを無にする場、それを「虚無」と言っています。
宇宙がいい例です。上も下も西も東もありませんから。
どんなにあがいても、基準となる座標軸がなければ進んでいるとも
後退しているとも何とも言えないただの無があるだけです。

立つことができればいいんです。
どんなに敵が強大でも努力すればいつかは受け止めることができるかもしれませんから。
でも、僕として立つことができないなら、受け止めようもありませんし、
努力のしようもありません。
宇宙を漂っている人を「立っている」と言うのは結構な力技です。

じゃあ、なぜ「僕」があやふやなのか、ですよね。
なぜ宇宙を漂っているのか。
・・・そういえば、何でそう思うんでしょうね。
「あやふや!」という実感があるから言っているのではありますが。
ある程度は人にも説明できる形で言葉にできるとも思うんですけど、
また考えてみます。


ですが、僕は救いはあると思ってはいますよ。
「無理だ」というのは僕の願いは叶わないというだけであって、
そんな間違った願いとは関係なく、人間に救いはあると思っています。
ただ、それに賭けているだけだという面がありますので、
こういう希望は非常に打たれ弱いです。
ちょっとした気分にすぐ流されます。
中途半端の達人になろう
僕は以前、ある別の人と話していて、
「もう、こうなったら中途半端の達人になるしかない」
と言った(書いた)ことがあります。
半分ヤケクソなんですが、
(かめさんの仰るニュアンスとは少し違うような気もしますが)僕も自分は中途半端だと感じています。

ブログタイトルに「考えすぎ」を標榜してはいますが、
実際のところ、そこまでとことん考えすぎているわけでもないようなところもありますし、
・・・でも、こうやって「ああでもない、こうでもない」と考えすぎる部分は、人並み以上に多い気もしますし。
そもそも僕の発言とか思考には、「~かもしれない」が圧倒的に多いんですね。
結局のところ、結論が言えない。自分の中に確証がないからです。
ひどい時(二十歳前後や、それよりももう少し前くらい)には、
「かもしれない」「間違っているかもしれないけど自分としてはそう思う」という言い回しが、
僕の発言の中で半数くらいを占めていた時期もありました。
それくらい、何かにつけて自分の発言に「間違っているかもしれない」という可能性を付け加えることに固執してきたのです。
自信の無さの表れ、とも言えると思います。

一時期は、自信を持とうとしたこともありました。
そのために工夫してみたり、自分を変えようとしてみたり。
でも、ダメでした。結局、あれこれ考えはするものの、どこまで行っても中途半端。
周りを見ると、僕と言葉を交わした人の多くは、自分で納得して次のステージに進んでいきました。
僕は、それを見送ってきました。

そこで思い余って僕の中から出てきた言葉が、
「もう、中途半端の達人になるしかない」でした。
今も基本的にそれは変わりません。
自分が納得がいかない限り、細かいことにもうだうだとこだわり続けています。
結果、いろいろなことが中途半端になっています。
でも、そのおかげで、中途半端になってしまういきさつや流れ、その前後関係については
だいぶわかるようになってきました。
そういう悪循環に嵌ってしまう人の気持ちや立場も、世間の人たち以上には理解できるつもりです。
(←余談ですが、この、「つもりです」というのも僕の中途半端さの一つです。)

かめさんも、もしかすると、
ご自身の力では避け得なかった「あやふや」という部分を
拠って立つ基盤になさるとよいのかもしれません。
どんな時も、いつも「あやふや」だったのなら、
逆にそのかめさんの「あやふや」は、誰にも奪われないということでもありますよね。
それは、かめさんにとって悲しい現実かもしれませんが、
誰にも奪われないことは、それがもし武器にできるなら非常に強力です。

他人事だと思って好き勝手なことを申し上げましたが、
僕は、そう感じました。
忘れていました
忘れていたことを思い出しました。
僕も「かもしれない」とよく付け加えるタイプなんですが、
最近は意図的に断定口調を増やすようにしていました。

以前に断定口調にできなかったのは、自分のその時点での考えが
正解だという保証がなかったから、ということなんですが、
そのもっと深いところにあるものが、
単に「客観」「真実」を尊重しているからではなくて、
『「客観」に背く自分』を恐れていたからなのだとあるとき気がつきました。
「間違いを犯す自分」であるのが恐ろしかったんですね。
事実に対して誠実とかそんな高尚なものではなく。
ただ自分が自分の理想に背くのが怖かった。

それから、他にも色々思うところがあって、
「別に何を言ってもいいや」と思うようになりました。
間違ってもいいし、そのせいで人を惑わせても別にいいや、と(笑)
もちろん、自分が正しいと思ったことしか言いませんが、
その自分の理解を超えた「本当の正しさ」というのは、
自分を超えているためわかるはずもなく、
ビクビク恐れていた対象も自分が作りだした幻だと思うようになった結果、
「なんでも言ったれ」と思うようになりました。

そういう経緯があったのですが、いつからかその背景が抜け落ちて、
ただ「何でも言う」という行為だけをやっていたようです。
それを忘れていたことにまこっちゃさんのお話を聞いて気が付きました。

その「忘れていたこと」が今までの話題とも関係してくるのですが、
僕は、正解、客観、真実などに遠慮せず、
また自分でないものになろうとしたりもせず、
「全力で自分である」ことができるようになること、
もしくはその可能性が与えられていることが
人間にとっての救いなのではないかと考えています。
それは、最初のコメントにも書きました、
「嫌だ」「怖い」に徹底するということでもあります。

まこっちゃさんのおっしゃる「あやふやを拠って立つ基盤にする」ということを、
僕も思って楽になったり、思っても楽にならなかったり、思えなくなったり、
ということをこれまで何回も繰り返していますが、
楽になったりならなかったりグラグラ揺れるそんな自分をふり返って思うのは、
「なんか立とうとしている自分が嫌だ」ということです。
ときには気持ち悪さや憎らしさすら感じます。

立ちたい、立ちたい、と言いながら、立とうする自分が気持ち悪いのです。
足場がなくて不安でたまらないというのが悩みなのですが、
どこかに足場を持ってしまうこと自体が間違いだから、
というか嫌悪感を持っているので、結局どの足場も選択できないのです。
「自分自身」というのも一つの足場ですしね。

でも、やっぱり「どこでも足場にしたらいいじゃないか」とさっきちょっと思いました。
僕は「どこにもない」ということにとらわれすぎていたのだと。

そういう観点に立ってみると「あやふやを拠って立つ基盤にする」というのは、
正直なところ最初は「でもそんなことを言ったって」と思いましたが、
これは確かにすごく生きる力を与えてくれる考え方ですよね。
大体、こういう考え方をすると勇気が湧いてきます。
「ちくしょう!」とか「なめるな!」とか、僕はそれを精神力と言ってますが、
そういうものの力を僕はかなり大きなものとして捉えています。
それも忘れていることでした。
今の僕はただただなぶられるだけで、反抗しようという意志を持っていませんでした。
(伝わるかどうかわかりませんが、「あやふや」を敵にしようということではありません。)

一方的に書いたのでまこっちゃさんがどう思われるかわかりませんが、
僕はそういう風に思っています。
うーん、そうですね
たぶん、かなりかめさん自身の感覚のほうに寄せて書かれているので、
僕にはピンと来ていない部分もあるような感じがします(笑)。
ただ、何か、かめさん自身にとって「しっくり来る」ところがあったのかな
ということは感じました。

それでいいんだと思います。
僕が意図したところと、かめさんの受け取ったものが違っていることは普通であって、当たり前です。
世の中、互いに誤解し合って動いていっていますから。
もし世界からあらゆる誤解がなくなったら、
戦争も減るかもしれませんが、(たぶん)結婚する人も減って、少子化が加速していき、
やはり人類は滅亡に進んでいくでしょうね。

人間関係の大半が大いなる誤解によって成り立っていると思います。
これは、皮肉ではなく、むしろ称賛・・・というか感嘆です。
なんてうまくできているんだろう、と。
数々の誤解のお蔭で生きていける。
ありがたいことです。

今後とも、よろしくお願い致します。
今後ともよろしくお願いします
そうですね(笑)
寄せているどころか、完全に僕目線での話ですからね。
こういうことを一方的に書かれた方の人が
どういうリアクションを取るのかっていうのは
今想像しようとしても中々難しいです。
僕がされたことがないので。
段々経験を重ねていったらパターンを覚えられるのでしょうが。
とりあえず今はちょっと恥ずかしかったりします(笑)

最近、相手に通じるかどうかというのは考えないで、
とにかく思ってることは全部言おうと思っています。
「相手に応じて」ではなくて「だれかれ構わず」です。
それは、「ほら、僕らはここで繋がることができる」というのとは正反対で、
「僕らはこんなにも違う生き物だ」ということを徹底していく方向です。
その違う生き物同士がどういうところで繋がることができるか、
ということをテーマにしています。

そんなことをやっているんですが、
果たしてこれでいいのかなという気もしています。
これは、相手を見ないということでもありますしね。

通じ合えないし、通じ合う気もない。
でも、そういうところを超えたところできっと繋がれる。
という考え方なのですが、これは孤独を覚悟した道でもあります。
その寂しさがこうして長々と文章を書かせているんだろうなと思ったりもします。

でも確かに「丸っきりわかる」と言ってくれる人が現れたとしても、
そのことをもって僕は救われたりはしないだろうということはわかっていますし、
じゃあやっぱりこれでいいのかなという気もしています。

それでも、まこっちゃさんだからこそ長々とお相手して下さっている
のだということはわかっていますし、
それは本当にすごく感謝しています。

こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。
いつもこけるまで自分の間違いに気付きませんので、
今後も色々とご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

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