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タイトル付け難い

毎度毎度思うことだが、
「もう死のう」と思うとおかしなことに気持ちが楽になる。
楽になれそうもないから死のうと決めるのだが、
そう決めると、狙ってないのに楽になる。
そして気付く。
あまりにも生きようとしすぎていたのだと。
「生きねばならない」
その思い込みのゆえにもう生きられなくなっていたのだと。

あまりにも重いものを背負っていたのだ。
それはとても背負い切れるものではなかった。
世界の全てなのだから。
世界は大きすぎる。
世界は「ありすぎる」。
僕はこんなにも重いものを自分の身体として生きていたのか。

背負えるものではないのだ。
背負えないから、既に全体を背負えているのだ。
背負えるものではない。だから背負うことができる。
「こんなものは自分ではない」。だからこそそれが自分になるのだ。

無が怖かった。
ペンを無くすのは怖くない。靴を無くすのも怖くない。
他にも何でも、持ち物を無くすのは怖くない。
本当に怖いのは自分の立っている場所を無くすことだ。
全財産でも、住む所でも、社会的地位でも、大切な人でも、
それを無くすのが怖いのは、それらが自分の持ち物だからというのではない。
「この世界への信頼」が無くなってしまうから怖いのだ。
「自分に限ってそんなことは起こり得ない」
その信仰を打ち砕くのが「無」だ。
「この世界に秩序はないのではないか」
「この世界は無慈悲で無情なものなのではないか」
「自分が何をしようとしていなかろうと、
そんなことと世界とは何のリンクもないのではないか」

それが怖かった。
だから逃げた。必死で逃げた。
生きたい。生きたい。
そうしてもう何十回目か、もうそれ以上は走れなくなった。
それで諦めてもう終わりにすることにした。

世界は違って見えた。
どうせもう死ぬのだから何も恥ずかしがることはないか、と。
些細なことなんてどうでもよくなった。どうせこれから死ぬのだから。
でも、これも何回目か、ふと気が付いた。
死のうと決心しようとしなかろうと、どうせ死ぬということに何も変わりはないのだと。
死のうとした人にだけ死がくるのではない。
生きたいと願う人もどうせ死ぬのだ。
「生きたい」と願っている間は「死は来ない」とどこかで思い込んでいる。
それが、決して失いたくないとする「世界への信仰」。
生きたいと逃げている間、死は観念上のものにすり替えられるのだ。
だがそんなことをやっているその人もその内死ぬのだ。現実問題として。

自分はどれだけ生きようと走り続けてきたか。

だが、

死ぬのだ。

ほんの束の間でも夢が破れたときに気付く。
自分がどれだけ生の亡者であったかと。
自分がどれだけ決して背負えるものでないものを背負おうとしている者であったかと。

無が怖い。
でも世界は「有りすぎる」。
とてもこの手では掴み取れないくらい。
とても背負えるものではないくらい。
そうとわかれば、無とは全てのことだったのだ。

この肩で担える責任なんてたかがしれている。
すべてのことに対する責任なんてとれるわけがない。
そんな無理なことをやろうとすると、いつか責任に押しつぶされてしまう。
だが、押しつぶされるから、全てを包むことができる。
背負う身体を無くしてしまえば全てが自分の身体となる。

未知のものは怖い。だからすべてを既知にしようとする。
でも、自分なんかにカバーできるものはたかがしれている。
この世界は自分にカバーできないもので溢れているのだ。
だが、そんなむなしい努力もやめてしまえば、
未知というのはそのまま自分の可能性と言い換えることができるのだ。

こんなことを言いつつまた夢を見始めている。
死ぬのを保留にし、やがてまた生きようとし始める。しなくていいのに。
そしてまたその内こける。
何のために走るのか。きっとこけるためだ。
こけて自分というものを思い知るために走るのだ。
でも、それに付き合ってられなくなって、そこに悪い運が重なったとき、
きっと僕は死ぬ。
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つぶやき | コメント(8) | トラックバック(0) | 2014/07/20 18:17
コメント
世界は「ありすぎる」
とても的を射た言い表し方だと感じました。

世界は「ありすぎる」。
自分という一個の視点の中に、そのすべてを収めようとするから、
「ありすぎる」のですよね。
そして、それに対して無に帰していく自分という一個の喪失が、途方もなく怖いのです。

そもそも、この怖さは、
自分が生まれる前には自分が存在しなかった、ということを前提にした恐怖感です。
この恐怖感は、「今、自分が存在していること」に対する恐怖感と表裏一体の関係にあります。
どちらにしても、自分だけでは背負いきれない恐怖です。

もし、自分が生まれる前には自分が存在しなかったのだとすれば、
このせいぜい100年程度の人生の中に、逆に、自分にとっての「すべて」が詰まっていることになります。
古代エジプトのピラミッドも織田信長も、
僕が生まれる前には僕は知りませんでしたから、僕にとって存在もしていなかった。
そう考えると、せいぜい100年程度とはいえ、「すべて」が詰まり得るほどの長さを備えているのだ、とも言える気がします。
思えば、ニュートンもアインシュタインも、釈迦もキリストも、
せいぜい100年程度しか時間が与えられていない中で、そのすべてを為してきたわけですから。

またもし、自分が生まれる前から自分が存在していたのだとすれば、
「自分という一個の視点の中に、そのすべてを収めようとする」ということそのものが間違っていた、
ということになります。
単に自覚がないだけで、自分は以前も以後も存在するのだと。
そしてこの「自覚」というものは、確かにかめさんが頻繁に言われているように非常にあやふやなものです。
そんなあやふやなものの有無に、どうしてこんなにこだわってしまうのか、
・・・というところを、もう少し調べてみたほうがよさそうです。

幸い、まだそれを調べてみるだけの時間もあります。
また上述したように、ある意味では「すべて」が詰まっているこの人生です。
かめさんのこの記事を最初に拝読した時には、さすがに“ある感触”を思い出して怯みましたが、
いつまでも時間が与えられているわけではありませんし、怯んでばかりもいられません。

アテがあるわけではありませんが、目を逸らさずに立ち向かっていきたいと思います。
死をコントロール
まこっちゃさんのブログにリンクが貼られていて驚きました。
ちょっとダークな記事なので気恥ずかしいです(笑)


>このせいぜい100年程度の人生の中に、逆に、自分にとっての「すべて」が詰まっていることになります。

についてなのですが、その「すべて」に果たして納得ができるだろうか、と思ったりします。
おっしゃるように自分の人生が自分のすべてであるということは言えると思いますが、
その「すべて」の中に、この世に生まれ死んでいく、という自分にとって最大の謎が含まれているように思います。
そうすると、「自分のすべて」の中に大きな謎が残り、結局あやふやなままなのではないか、という気がするのです。
例えこの人生の中にすべてが詰まっていたとしても、
「そのすべてが何だというのだ」という疑問が残るように思うのですが。
でも、おっしゃってることはわかる気がします。
この人生が自分のすべてである、ということ。


それと思ったのですが、
僕にはどうも「時間を与えられている」という実感が持てません。
一番ぴったりくるのは「いつ来るか、いつ来るか」という感覚です。
与えられているというより、奪われる恐怖ですね。
しかもそれはいつくるかわからない。
僕の中では、「いつか死ぬ」という事実は、「もう今死んでいるようなもの」という風に変換されます。
そういう意味ではもう時間がないのです。残っていないというより、もう終わっている、という感じです。
「死ぬ存在として生まれた」、その時点で終わっているんです。
不老不死でありたいということなのかどうかはよくわかりませんが、
「自分は欠けた存在である」という感触ですかね。
完全無欠ではないのですよね、当たり前ですが。


あと、
僕らは「死を納得したい」と思って奮闘していますが、
「死を納得したい」よりももっと純粋な願いは「死にたくない」ではないでしょうか。
本当は「死を受け入れたい」んじゃないと思います。ただただ「死にたくない」んだと思います。
こっちの都合を全く考慮せずに不意に襲ってくる「死」というものに相対して、
何とか仕返しをして優位に立とうと打ち出した策のようなものが「死を納得したい」なのではないでしょうか。
コントロール不能の「死」というものをコントロールする術はありません(おかしな表現ですが)。
始皇帝などはともかく。
そうするとそのコントロール不能のものをどういった形で手なずける(こちらが優位に立つ)かというと、
「受け入れる」「納得する」しかありません。
死ぬのは変えられないが、死ぬことへの抵抗はなくすという。
そういう形でのコントロールです。コントロールできると安心できます。
こちらの意図を超えているから脅威なのです。意図の範疇に収めれば安心できます。
これは一種の妥協だと思います。
でも、その妥協を取り払ったもう一つ先にある純な言葉は、「死にたくない」だと思います。

僕は思うのですが、「死について考える」というのは逃げじゃないでしょうか。
自分を見ていてそう思います。
死ぬようにできているのですから、素直に死んでいけばいいんです。
でも人間にはどうしてもそれができない。
「死にたくない」「自分を失いたくない」「自分に欠損を持ちたくない」「すべて自分の管理下に置きたい」
そうした思いが、「死を納得」させようとします。
と言っても批判しているわけではなくて、むしろ僕は、
この人間の一番の本音を徹底するべきなんじゃないか、と思っています。
きっと本気で「死にたくない!」と叫べたときに、本当にいう意味での宗教の救いがあると思います。

ついでに書きますが、理想的なのは、「はい、死んでいきます」と言えることではないでしょうか。
これは「納得」した上での言葉ではないです。
多分納得したら「死」という言葉すらも出てこないと思います。すべてが自分の管理下のあるのですから。
「死」という外部の脅威はなくなります。
上述の言葉はそれではなく、自分の上位に立ち、自分を支配する未知のものに対して発する宣言です。
「はい、従います」という。
言い換えれば、「死ぬまで生きさせてもらいます」になり、
さらに言い換えれば、「『死にたくない!』と連呼することになりますが、その日まで生きさせてもらいます」
ということになるのではないかと僕は思います。
もっと生きた言葉に変換可能だとは思いますが、大体そんな感じかなと思い描いてはいます。
死にたくない
確かに、
「時間を与えられている」
と書くと、確かに神様か誰かに与えられている、という印象を与えますね。

僕に時間を与えてくれるなにものかが存在し、
その確かな時間が与えられている。
・・・と、思っているわけではありません。
そこまで考えずにこの表現を使っていました。
感じとしては、「自分の持ち分」みたいなイメージです。
もちろん、あとどれだけ持ち分が残っているのかはわかりません。
1秒後かもしれないし(というのはこうして文章を書いている間に経ってしまう短さなので、さすがにほぼないでしょうが)、
1日後かもしれないし、
1年後かもしれないし、50年後かもしれないし。

でも、持ち分の長さに関わらず、
限りがあるということが僕にとっては重要なのです。
持ち時間は無限じゃなくて有限。
それがどれくらいの長さなのかは、わからないけれども。
・・・そんな感じです。

おっしゃる通り、端的には
「死にたくない」のです。
でも、死は避けられない。
だから、それを前提にすると、せめて、
「何が何だかわからないまま『死に』たくない」
という思いが(僕の場合は)わき起こってきます。
理屈じゃなくてもいいんです。
おっしゃるように、
「はい、死にます」と言えれば、それで問題は消え去ります。
たぶん、そう言えるかたもたくさんいらっしゃると思います。
どうしても避け得ない死ならば、
せめて死を諒解して死を迎えたい。
そういう気持ちです。
パターン
多分、問題としているところは同じなのだと思いますが、
僕らも僕ら以外のこの問題を意識的に抱えている人も、いくつか感じ方にパターンがあるんじゃないでしょうか。
多分、まこっちゃさんは「持ち分」とおっしゃっていますから、
あるかないかでいうと、「ある」というイメージなんだと思います。
でも、僕の場合は「ない」というイメージです。
「限りある」「有限」というのは、僕にとっては「ない」なんですね。
ちょっと説明が難しいですが、「絶対ではない」「不完全」という意味で、「ない」んです。

「自分の持ち物が」じゃなくて「自分が」ないんです。
手足だったり顔のパーツだったり「あるべきはずのものがない」という感覚ですね。
ちょっと大げさに書くと、ですけど。
でも、それくらいの強度で感じている人もきっと世界にはいるんでしょう。
些細な存在とか、夢とか幻みたいな存在とか、そういう意味での「ない」です。
「あってないようなもの」という意味での「ない」です。
「限りある存在として生まれてきた」ということが僕にとっては、
「欠けた存在として生まれてきた」という感じになるんですよね。

どうやら、まこっっちゃさんの場合、「有限」という自覚がプラスの動機づけになるのに対して、
僕の場合は、圧倒されて立ちすくんでいる、ということになるのでしょうか。
そこに違いがあるのかもしれません。
「あとどれだけ持ち分が残っているかわからない」ということが僕には堪らない恐怖となります。
自分という存在にとって決定的な「核」の部分を、自分が握っていないという恐怖です。
一番大事なところを、誰か(無秩序な混沌)に握られ、
その人の気まぐれでどうとでもされてしまいます。
「そんな誰かがいる」というより、「そんな誰かがいない」という恐怖です。
だから、一言でいえば混沌ですね。
自分なんてどうとでもなってしまうという恐怖と、
どうとでもなってしまい得るような存在であるとの不完全感と敗北感です。

かなりくどく書きましたが、自分にとっては当たり前に思えることも
どこまで人に通じるかというのはわからないのですよね。
多分、「既に終わっている」という感覚は
想像しようとしてもできるものではないのかもしれません。
僕もやはり、まこっちゃさんが中学生のときにお感じになった「死への恐怖」というのは
想像しようとしてもできません。
僕の場合は「死への恐怖」よりも「いつでも死に得る不安」の方が前面に出ていますから。
きっとその人のリアルはその人だけのものなのでしょうね。
理屈で導き出したのではなく、圧倒的な実感としてそれを持つ。
でも、似たような実感を持つ人にしかなぜか通じない。
ことに、「当たり前」の裏側にあるものについては。
そんなことを思いました。

僕も調子がいいときは気持ちがプラス方向へむくのですが、
それがどういう条件でそうなるのか、またそれがいいことなのか、
というのはまだはっきりわかりません。
生きるのが楽にはなるのは確かですけどね。
もしかすると
かめさんの場合は、
既にご自身が「まるで幽霊みたい」な感覚でいらっしゃるのでしょうか。

そうですね。
死を強く意識する者同士でさえ、これだけ違います。
でも、普段死をあまり意識しない人たちから見れば、
かめさんと僕は「よく似ている」のかもしれません。
そう考えると、
「似ているかどうか」ということ一つをとっても、
どの基準から見るかによって違ってくる、
ということに気づかされます。

当事者同士の間では、こんなに根本的な捉え方の違いを感じているのに、
もっと大まかな括りから見れば、きっと非常に似通っている。
その辺の事情も調べ尽くせぬうちに、我々は死を迎えるのでしょうね。
それもこれも含めて死であり生である、ということを
正視していきたい、と思っています。

(追伸)
かめさんから見ると、死を前向きに捉えているように思われるかもしれませんが、
僕も、半分は意地みたいなところもあります。
かめさんに指摘されてドキッとしましたが、
「そうは言っても、どうせ無理だろう」
と思うところは正直あります。
でも、それでは悔しいから何とか粘ってみたい、
・・・と思うこれは意地でしかないかもしれません。
勝算は限りなく低い。
だからこそ、計算づくの「攻め」ではなく、これは意地であり「賭け」なんです。
どうせ死ぬ運命なら、このことに賭けてみてもいいでしょう、
といった感じでしょうか。
こういう予想です
そうですね。虚ろな存在という意味では幽霊と近いかもしれません。

あと、ちょっと今さらという感じかもしれませんが、
僕は死を強く意識しているかというと、そんなことはありません。
別に死ぬのはまったくと言っていいほど怖くはないです。
僕にあるのは、死という出来事に対する恐怖ではなく、
「いつか死に得る存在だ」という自分に対する不安です。
むしろ死は僕にとっては希望です。やっと生きなくてもよくなったのだという。
でも、ここでは省略しますが、それはよくよく考えていくと、「死への恐怖」と言えるな、と考えるに至ったという感じですね。
そこに大きな違いがあるのかもしれません。
問題は同じですけど経緯が違うのでしょうね。


それから、これは今日ふと思ったのですが、
もしかしたら、まこっちゃさんや、いるかどうかわかりませんが
僕ら以外のこれを見ている人からしたら、僕の主張は
「どうせ考えても答えはでないからそれなら考えない方がいい」という風に思われているのではないかなぁと。
自分ではそんなことを言っているつもりは全くなかったのですが、
見ようによってはもしかしたらそう見えているのかな、と思いました。

僕の主張はむしろ逆で、
気になってしまったら考えるのをやめることなどできない、だから徹底的に考え抜くしかないのだ、というものです。
さらにプラスして、これは予想ですが、
立ち上がれないくらいに徹底的に壁にぶち当たらない限り、「考えてもしょうがない」ということはわからないのだろう、と。
答えは誰でも最初からわかっているんだと思います。「自分を超えている」と。
ただ、納得ができないだけなんだと思います。
それは普遍的真理云々とかの問題ではなくて、単に感情の問題ですね。
自分のこれまで行ってきた「真実を問う」というような清い試みが、
「諦められない」という執着の発露でしかなかったのだとわかるためには
徹底的に壁にぶち当たるしかないし、
そうしたときにふと「ああ、これは自分を超えている問題だな」ということがわかるんじゃないでしょうか。
理解に感情が追い付く形で。(それでもまた問うのが人間でしょうが。)

だから僕の結論はこうです。
「死は考えてもわかるものではない。」
でもそれは、無駄だから別の道を探しなさいということではなく、
その道を行くしかないし、どうせ行くことになる。
でも行けば必ず行き詰る。が、その行き詰りを極めたとき、
「考えてもわかるものではなかったのだ」と納得することができる、というものです。

最後にもう一歩だけ踏み込むと、「諦められない」「納得できない」ということに対して
まこっちゃさんの場合は、自分の意志やこだわりのようなものをお感じになり、
僕の場合は、そのあがきは誰もがやる人間の業のようなものだ、と理解している点が違うかと思います。
やっぱり誰もが自分の人生は諦めたくないんじゃないでしょうか。


こうして人に話させてもらうとだいぶ整理ができますね。
いつもお世話になっています。
余地
なるほど、確かにだいぶ整理されました。
おもしろいですね。
たった一つのことをとっても、
こんなに質的にも位置的にも方向性も違う見方、アプローチの仕方があるんですね。
日常会話の中では、それらの差異は「ごく自然に」見過ごされているのでしょう。
むしろ、「ごく自然に」見過ごされることによって、スムーズなコミュニケーションが実現されているのかもしれません。
いちいち引っかかっていたら、物事が何も進まなくなり経済は停滞し文明は滅びます。

僕の場合、
「どうせ考えてもわかるものではない」かどうかについても、最終的な結論を保留しているようなところがあります。
かめさんから見ると、僕が非常に積極的な姿勢を取っているように映るのかもしれませんが、
自覚としては、むしろ「極めて慎重になっている」「しかし突き止めたいと思っている」といった感じです。

思いきり壁にぶち当たらない限り、身をもって知ることはできない、
というのは本当にその通りだと思います。
僕の心境にも、それを期する部分が少しあります。
ただ、いずれにしても、
つまり「どうせ考えてもわかるものではない」のだとしても、
それを身をもって知りたいわけです。

そして、それは単に人間が「知りたがり」な生き物であるからそう思い込んでいるだけ、
ということにとどまるのだとも思っていません。
実際、そうなのかもしれませんが、
そのことにさえまだ確証を持てずにいるからです。

単なるまやかしで、こんなに奇跡的な世界が存在するでしょうか。
地球から見る太陽と月の大きさがほぼ同じことや、
コンピュータも脳の神経細胞も電気信号で情報処理している点では同じであること、
映画やアニメで見るようなありとあらゆる不思議な光景の原風景がこの地球上に存在していること、
等々が、「単なる偶然の産物だ」では
僕の中では収まりきらないのです。
もしこれが単なる偶然なら、僕は、その「単なる偶然」そのものに驚嘆しますし、その「偶然」というものをやはりもっと知りたく思うわけです。

結局のところ、どれもこれも僕の個人的な感情に発露したものだ、と言ってしまえばそれまでなんですが、
僕自身は、そのような感覚でこの世界を見ています。
懐疑持ち
つまるところ、「はっきりしたい」ということじゃないでしょうか。
それは裏を返せば、今が不安定だったり不確定だったりということになるわけで。
その落ち着かない状態がなんとか落ち着くように願っている、
とその点は共有できるかと思うのですが。

まこっちゃさんが慎重になられているのはわかる気がします。
安易に「これが正しい。他は間違いだ」と言えないというのは、
もしかしたら現代人の生きづらいところなのかなと思ったりします。
昔のように一つの考え方に心酔したり没頭したりしにくくなってますよね、きっと。
「こういう見方もあれば、ああいう見方もある」という観念がいくつも浮かんでくるので、
いつまで経っても「これだ」と言えないんですよね。
仮に自分にはこうに違いないという自信があったとしても、
「その判断自体が正しいということは証明できない」とか何とか思ったりして。

単なる知的好奇心からでない「死の探究」のもとにあるのは、
何らかの強烈な実感だと思います。
「何かが違う」「間違っている」「これは本物ではない」など人それぞれだと思います。
それに取り組もうとする人は必ず自分のその感覚を指針にするんじゃないでしょうか。
「このままではいけない」という感覚を。

そうすると、自分のその感覚自体は当てにしているので、それはいわば前提となっているんじゃないでしょうか。
前提としているので、その前提自体を疑うことはほとんどありません。
前提がなくなると何も成り立ちませんから。土台がないと建物は立ちません。
まこっちゃさんで言うと、『「死を怖い」と感じているこの感覚は果たして本物だろうか』と
本気で疑うことは中々難しいと思います。
難しいのですが、上述の現代人の悲しさで、どこかしら懐疑が湧いてき、
どこか本気になりきれないところがあるのではないでしょうか。
まこっちゃさんの「慎重である」ということからそんなことを連想しました。

安易に他人の語る「死の答え」を受けいれないのは、
現代人の慎重さであり正しさだとも言えるかと思いますが、
そのとき頼りとする自分の実感でさえも疑いが可能であると
無意識的にでも知っているところがやはり悲しく辛いところかなと思います。
前提としているものですら、確固たるものではない。
そうすると、あれこれ考えたり、もがいたりあがいたりする「自分自身」が不安定だと言えませんか。
「考えてもわからない」との結論に達したというのではなく、
考える自分自身の「前提さ」を失ったという感覚です。
前提を失えばそこから導き出されたどんな答えも
水の上に描いた絵のように儚い幻となります。

自分が未だに納得できないのは、まだ本物の答えに出会っていなかったり、
まだそれを理解するだけの器ではないからだ、というのもあるのかもしれませんが、
それよりももっと重大なことは、
自分がどんなものも「必ず」否定してしまう「懐疑持ち」だということじゃないかなと思うのですが。

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