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雑談

・ずっと母親から逃げている。母親というより、「母親的なもの」か。
自分を呑み込んで無に帰してしまう恐ろしいもの。
ずっとそれから逃げている。
せっかく「自分」になったのに呑み込まれてたまるかと。
またあの混沌の中に霧散してたまるかと。
甘やかされると溶けてしまう。
だから厳しさを求めた。
甘えの入り込む隙など与えずに。
それは父を求めての旅。
父を追いかけ、母から逃げる旅。

・「死ぬ前に」って死ぬのを自分の所有物にしてる。
「いつ死ぬか」、それは自分を超えている。
「このままでは死にきれない」ってまるで自分の力で生きているかのようじゃないか。


・不思議なことに、「虚無」ということの中には、
「全て」が知れてしまっているということが含まれている。
無なのに、全て。
知れてしまっているから虚しいのだ。
どこに手を伸ばしてもきっと何も掴めない。
なぜなら対象がないから。
いや単に対象がないだけならまだいい。
手を伸ばそうとするところの、自分がいないのだ。
だから何をどうあがいたところできっと何も掴めない。
あがくと名づけられるような粛然とした行為さえ起こらない。
と知れてしまっているのだ。
手を伸ばす自分の非を悟ってしまっているのだ。
その閉塞感。
だが、手を伸ばす力が弱くなっているわけではない。
「無い」という打ち消しの力が働いて伸ばす力を相殺しているのだ。
感情は滞りなく発散するべきだ。
相反する力との衝突のために発散できなかったエネルギーがどれだけ身体に害を及ぼすか。
「あってほしい」それなのに突きつけられてくる「ない」(という思い)。

国語の問題を算数の問題として解こうとするようなものだ。
計算の中身が間違っているのならまだいい。
頑張り次第で訂正も可能。
だが、計算すること自体が間違っているとき(国語の問題なのだから)、
そして自分にはその選択肢しか用意されていないと知れたとき、もはや為す術はない。
為す術はないが、それ(計算)をしてしまう自分を冷静に見ている自分もいる。
その苦しさ。
間違っているとわかっていて間違っていかざるを得ない苦しさ。
何にも触れられないのはわかっているのに手を振り回さねばならない苦しさ。
そんなぬめっとした、空気の重い世界。
しかし、手を振り回すのに疲れ、それをやめてしまったときにだけわかる、
手を振りまわさなければ掴むもの何でもある、ということ。
「ない」としたそのすべてが掴み得るものだったということ。
でも間違っているとわかっていて間違うことなどできるのだろうかとふと思う。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/22 21:01
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