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未知との遭遇

未知というものは人間に二通りの反応をさせる。
恐怖とワクワク感。
「自分の知らない」「自分の外部からやってくる」ということは、
恐怖ともなればワクワクにもなる。

親鸞は人は条件次第でどんなことでもすると言った。
この人は善人だからこんな残虐非道なことはしない、なんてことはなく、
その人が現在その行いをしていないのは、
今のところそういう条件が整っていないだけであって、
条件が整いさえすればどんなことでもする。
確固たる「その人」なるものが存在するわけではなく、
すべては「縁」次第であると。
これまでどんなことをし、これからどんなことをするかということは、
言ってしまえば、(本人からすると)偶然に依ると。

仏教でいう縁という教えは、外部からやってくる、
「自分を超えたもの」についての言及だと思う。
神なるものが存在し、「この人間」は有用だからここで試練を与えて鍛え上げようとか、
日頃の行いに免じて苦しみを減らし、幸せを増やしてあげようとか、
そんなもんじゃないと。
すべてはただ因と縁と果でのみ成り立っている。
(無軌道と言っていいかはわからないが)その法則に則ってただただ流れるものであると。

けれども一方で、「宿業」という言葉も仏教にはある。浄土真宗でもよく聞く。
宿業とは過去の行いに応じて現在が与えられるということ。
だがこの言葉が厄介なのは、それが単に「これまでの人生」を指すばかりでなく、
「過去世での行い」も含めるということ。
「前世」とか「過去世」とか仏教らしからぬ(?)浮ついた言葉。確かめようもない言葉。

が、これはおそらく浮ついていることに意味がある。確かめようもないことに意味がある。
「自分を超えている」から。
「今生」での行いによってすべてが決まるなら、人生を良くするも悪くするも自分次第ということになる。
頑張れる頑張れないは置いておいて、とにかくきちんとすることさえできれば、
良い人生にすることはできる、とそういう発想が生まれる。
でも仏教はそんな甘っちょろいことは言わない。そもそも宗教は人生訓ではないと思う。
「前生」を持ち出す意味がここにある。
前世の行いに対する責任などとりようがない。
「自分を超えている」。
すべては縁という法則によって決まっているが、しかし自分を超えている。
法則性という必然と、超えているという偶然。

人は生きていて何に苦しむのか。何に出会うと苦しむのか。
未知。自分の預かり知らないこと。
苦しみとは思い通りにならないということ。
思い通りにならない「外部」のものによって人は苦しむ。
苦しみに直面した人の言葉は「なぜ自分がこんな目に」「こんなはずじゃなかった」。
どんなに善行を積んだところで不意に不幸は訪れる。
「自分はそこそこ良い人間だから大丈夫だろう」というはからいを破って不幸はやってくる。
重い病気や障害を持って生まれてきた人に対して、
本物の仏教者が「それは前生での宿業ですね」ともし言ったとしたら、
それはきっと「身に覚えがなくても過去のあなたが悪いのです」という意味ではなく、
「あなたの行いを超えたものとの関係を考えましょう」ということだろうと思う。
自分の思惑を超えて不意にやってくる不幸、災難。
これをしておけば大丈夫という思惑を打ち砕く。

冒頭に戻って。
「未知」は恐怖とワクワクと両方喚起する。
「知らない」ということは恐ろしいことでもあるし、また楽しみでもある。
だが、死という最大の未知に対して、果たしてそれを楽しみとすることができるか。
死とは「最もどうにかしたいけど最もどうにもしようもないもの」。
ワクワクすることは普通できない。普通は恐怖する。
仏教の核心はおそらくこの「自分の外部からやってくる」「自分を超えたもの」
に対して態度表明することにあると思う。

浄土真宗を見ていてよく思う。
ある瞬間からベクトルが逆転する。
「支配」が「保証」に、「偶然」が「必然」に、「運命」が「自由」に、
「奪われる」が「与えてもらう」に、「やる」が「やらせてもらう」に、
「向こうから一方的に」が「おかげさま」に。

「自分」にとっては管理下に置けない「未知」とは恐怖の対象。
「自分」が脅かされる。
だが、ある種の人には、
「自分が未知を支配したい」から「自分が未知に支配してもらう」へと
自分と未知との主従関係が逆転する瞬間があるようだ。
そのとき「支配」は「保証」に変わる。
「すべてはあちらが決めている」というのでは
こちらの自由意思がないではないか、という気もするが、
まったくそんなことはなく、「すべてはこちらの自由意思でやる」。
こちらの自由はあちらからの拘束であり、保証でもある。
支配されているからと言って窮屈でなく、
自由であるからと言って淋しくもない。

では、どの瞬間にベクトルが逆転するか。
おそらく完全に「自分」の思惑を打ち砕かれたときだろう。
身を守るために支配しようとしていた思惑が潰えたとき。
「自分の身は自分で守らねばならない」と健気に闘っていた人が
ついに自分を守り切れず、「自分が死んだ」とき、
「人は支えられて生きている」ということに気が付く。
多分、そういう構図だろう。

だから、信仰とか帰依とかいうのは、「降参宣言」で、
支配される側の自分であると引き受けることだろう。
神への信仰というものも、それは言い換えれば、
自分の死への信仰、未知への信仰、と言い換えれてもいいのではないか。

どんなに善いことをしていたって、通り魔に襲われて死ぬこともある。
どんな救世主だってタンスの角に足の小指をぶつけたショックで
死ぬこともあるかもしれない。
「そんなことはない」「大丈夫」とすがっていた信仰が夢でしかなかったのだと
教えられるような「未知」に直面したとき、本当の信仰の道が開ける。
そして仏教は、「すべて無だ」「神なんていない、絶対なんてない」
「何の根拠があって大丈夫だなどと思っていたのだ」
「お前が見ていたのは夢だ」と徹底的に叩き落した上で、「だからこそそれが救いとなる」
と発想を逆転させる。というか、「人はそういう過程を辿る」と言う。
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仏教風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/02 19:31
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