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輝けなくなった星

今読んでいる本。
ニーチェの自伝のようなもの『この人を見よ』。
それとパウロ・コエーリョの『ベロニカは死ぬことにした』。
どちらもまだ途中だが、とりあえず思うことを。
僕にとっては、同じことを訴えかけているように感じられる。

が、文章を書こうとしてもうまく書けない。
まとまらない。書きたいことが多すぎるのとまだはっきりしていないのと。
気力があれば何回かに分けてポツポツ書いていこうかなと思う。
一応あらかじめ言っておくと二つの本に共通している思う
(今僕が一番はっきりさせたいと思っていることでもある)のは、
このブログでたまに使う言葉でいえば、「精神力」ということ。
あとそこから派生して「人間的な情を断つ」ということ。
といっても「ガンバリズム」とか「ストイック」とかとは関係のない話なのでご安心を。

まず『ベロニカ』について。
何気なく手にとって読んでみたのだが、驚いた。
ついこの間『知れてしまっている』という記事を書いたところで、ベロニカのあの独白を聞いたから。
特にこの辺のところがすごい。
『そのうち、わたしも馴染みのバーやナイトクラブに通うようになり、世界の不公平や問題について話し、映画館に行き、湖の周りを散歩するようになるだろう。・・・』
から始まる、これから自分はこういう人生を歩む『だろう』の羅列。
恋人もできるだろう、結婚もするだろう、子育ても順調ではないがなんとかやっていくだろう、と。
一部取り上げるならこんな感じ。

『そんなある日、旦那が初めて愛人を囲って、わたしはたぶん、看護婦の叔母さんみたいに思いきり騒ぎ立てるか、また自殺するか考えるだろう。でもその頃には、わたしももう、年をとりすぎて、臆病になって、わたしの助けを必要としている二、三人の子供がいて、全てを捨てる前に、彼らを育てて、この世界で居場所を見つけてやらなければならない。わたしは自殺しないだろう。わたしは癇癪を起こして、子供たちを連れて家を出ていくと脅すだろう。全ての男たちのように、わたしの旦那は負けを認めて、わたしを愛しているし、もう二度と浮気はしないからと説得するだろう。』

念のために書いておくがここで言っている「旦那」とはまだ出会ってもいない架空の人のこと。
そんな架空の人とこれから送るであろう日々の想像。
あともう一つ断っておかねばならないのは、抜き出した部分がそういう印象が強いだけであって、
これは別に被害妄想ではないということ。
ベロニカは別に「これからの人生辛いことしか待っていないわ」と言って悲観的になっているのではない。
辛いこともあるだろうし、楽しいこともあるだろう。充実した人生だろう。やりがいのある人生だろう。
さまざまな困難に出会うだろうし、その度自分はボロボロになるが、乗り越える度に一回り成長している。
そんな人生が待っている。
そんな先の知れた人生が待っているくらいなら
『まだ勇気があり、死ねるくらいに十分健康であるうちに、今ここで全てを終える方がいい』
という悲観なのだ。
今までの経験上、これは多分同じ感覚を持つ人にしかわからないのだろうと思う。
そこで悲観に繋がる理由が。
普通それらは「辛いこともあった。楽しいこともあった。色々失敗をして色々学ぶことができた」
とプラスに作用する要素なのに、ベロニカにとってそれは「知れ切った味気ない事実」でしかないのだ。
まだ経験していないにもかかわらず、もう経験したような事実なのだ。
どんな想定外のイベントも、知れ切っているのだ。
僕の言葉でいえばだが。
だから、僕にとってベロニカのこの一連の独り言はものすごく生々しく聞こえる。
これから自分の身に起こるどんなイベントも、死の前には無意味、という虚無感。

といっても当然ベロニカがただ悲観しているだけの物語ではない。
この後色んな人に出会い、色んな考えに出会っていく。
まだ最後まで読んでいないが、多分そういう話。
多分テーマになっているのは「狂う」ということ。
そして印象的な言葉、『隣の人の邪魔になるとか考えるのはやめなさい』
この辺りのことが「人間的な情を断つ」と言ったところ。
別に無感情になれという意味ではなくて、
簡単に言えば「世間体を気にするな」と受け取ってもらってもいい。
世間体を気にするのはなぜか。空気を読むのはなぜか。
なぜ「おかしなこと」を言えないのか。
なぜ変人、狂人と思われたくないのか。
なぜ正しくあらねばならないのか。
なぜ人にはいい人と思われたいのか。
なぜこの場ではこうするのがマナーだろうかなどと考えるのか。
なぜ人にはやさしくしないといけないのか。
なぜ人を傷つけてはいけないのか。
理由は簡単なようで、でもよくよく考えてみると難しい。
「人間的な情」とはそれのこと。
暗黙の了解としているようなそれ。場の圧力とか。
『ベロニカ』で問題としているのは多分それじゃないかと思う。

で、多分ニーチェもそれを意識している。
ニーチェについて一番書きたいのはニーチェ自身の言葉でいえば
「生命力」とか「活力」ということについてだが、それは今回は疲れたのでまた今度に。
今回はちょっと想像してみたら面白かったこと。

この自伝を見てまず驚いたのが、章のタイトル(笑)
「なぜわたしはこんなに賢明なのか」
「なぜわたしはこんなに利発なのか」
「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」
中身をみても、この人はどれだけ自尊心が強いのか、
こんなに堂々と自分はいかにすごいかということを書く人間が実在するのか、
というどう受け取っていいのかわからないような印象を持ってしまう。
この人は本当に自尊心が強い人なのだろうか。
というか、自尊心が弱すぎるからこその見栄の塊のような人なのか。
それとも別の狙いがあるのだろうか。
そこのところはちょっとわからない。
でもちょっと「あり得る」候補として想像してみて面白かったのは、
僕の中ではニーチェは人間的な情を断とうとしている人になっているから、
ニーチェはただ周りなど気にせずに思っていることを正直に書いただけなのでは、
ということ。
ここまでひどくはないにしても、きっと誰もが心の中ではこんな汚いことを考えている。
人よりも自分の方が物事をわかっていると思うし、周りは皆馬鹿に見える。
すべての点において自分が優れているとは思わないにしても、
「何かしら一つ」の点において、「誰にも譲れない」一つの点において、
「密かに」自分は優れていると思っている。
「何も優れたところはない」という点で自分は特異だと思っているパターンもよくある。
口には出さない。
なぜか。それを言うことはタブーだから。そんな自分だけの秘密。
そこに賭けている。自信の最後の砦のようなもの。
それを手放すと自分が自分でなくなってしまいそうなもの。
そんな自分の芯のようなものは口には出さないし、出せない。
まあ、そんな芯に限らず、自分の方が優れているという誰にも言わないが
内心では皆思っていることをニーチェは(わざわざかどうかはわからないが)書いた。
それをパッと見「この人変わってるな」と思ってしまうというのは、
それだけ僕らが常識に囚われていることの証拠でもある。
そういう風にニーチェが、自分がすごいと思っているからすごいと書いただけ、
なのだとしたらちょっと面白いなと思った。
どんな批判にも屈しないほどに「完璧な自分」だから書いたのではなく、
また誰にも理解されなくても「本当に」自分はすごいのだとの信念があるから書いたのでもなく、
すごいと思うからすごいと感想を書いただけ、なのではないか。
違うと言われたら、「はあ、そう思いますか」と。

ではなぜそれはタブーなのか。
社会生活が・・・そんなのは当たり前すぎるので別の観点から。
やはり人間的な情だ。場の圧力とか、嫌われたくないとか。
あとは「間違いを犯せない」からだ。
皆自分が正しいとは心の底では思っているのに、
「でも、実際のところどうなんだろう」「思い込みに過ぎないかもしれない」
「主観に過ぎない」と知っているから、それを堂々とは口に出せないのだ。
特に公の場では。
皆自分が主観から離れられない存在に過ぎないことを知っている。
だから「本心」が言えない。
その証拠に子どもは平然と自分のすごさをアピールする。しかも嬉々として。
そのすごさが「まやかしであるかもしれない」とは考えないから言える。
知恵をつけると考えてしまうから言えなくなる。

この構図。
自分が主観に過ぎない、一つの点に過ぎない、
どれだけ手を伸ばしても世界すべてを手に入れることはできない、
世界そのものになることはできない、
どれだけ絶対者に憧れても相対者に過ぎない、という構図。
全体の中のたった一つでしかない。
宇宙に漂う星の一つに過ぎない、という構図。
ニーチェのやろうとしたのはこの構図からの脱却だろう。
単に「神」だけの問題ではない。
「本心」が言えないことからの脱却、の問題でもある。
かつて一つの星が「自分は特別美しい」とふれ回っていたが、
やがて似たような、それでいてそれぞれユニークな星がいくつもあることを知り、
もう以前のようには輝けなくなってしまった。特別でも何でもないのだから。
優れても劣ってもいなくて、「皆同じ」なのだから。
そんな星の救済の問題。

で、ニーチェが言ったのは、本人がどう言ったかは忘れたが、
「世界を自分の好きなように、自分の都合のいいように解釈したらいいじゃないか」
ということ。
星の例で言えば、「自分を中心に宇宙が存在するのだ」ということ。
普通にこれを受け取ったら、とんでもないことを言ってるように思える。
でもそれがまた常識に囚われている証拠でもある。
「自分勝手に解釈してはいけない」
「『解釈』では正しくない。『事実』が知りたい。少なくとも安易に断定はできない」
などと考え、抜け出せない世界に沈み込む。
ニーチェが言っているのはその世界からの脱却。
あれも正しくこれも正しい。絶対的な観方はなく、観る場所によってものの正しさは変わる。
「その中で色んな観方をしていきましょう」ということでもなければ、
「無限に問うていく、この問うということの中で生きていきましょう」ということでもないと思う。
あくまでも脱却。
「好き勝手に決めつけたらいいじゃん」と。
決められない人に決めろと言う。問う人に問いをやめろ答えを出せと言う。
決められないのは「正しさ」を軸に生きているからだ。真理を追っている。
真理を追っているからこそ、決めたいのだが、それゆえに決められない、というフラストレーション。
でもそれは真理を追っているからだ。「絶対なんてない」と口では言いながら、期待している。
いわば中途半端。これを徹底させると「正しさ軸の生」から外れる。
だから、「何でも言える」。
例え、「間違っている」と批判されても、腹を立てるかどうかは別として
「ああ、そうですか」という話になる。
間違っていたら間違っていたのだろうしそうでなかったらそうでないのだろうと。
「間違ったことを言ってはいけない」という強迫観念から解放されているから。
その強迫観念が「神」とか「世間」とかいわれる「人間的な情」。
理想の話ではなく責任の所在の話だが。

ふう、疲れた。思っていたよりもずっと書いてしまった。
疲れたので今後も書くかどうかはわからない。
とりあえず書くとしたら、ベロニカは、僕の言葉だが、
「宇宙の中の一つの星に過ぎない」という構図に呑み込まれて
人間としての生命力をほとんど失ってしまった。
輝けない星になってしまった。
それが再び精神(内から発する光)を輝かせるようになっていく、という話(じゃないかと思っている)
ということと、
ニーチェが言いたいのもこの生命力の大切さだろうということ。
観念ではなく、もっと身体的なニュアンスでの「生命力」。
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人生観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/15 17:40
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