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内と外

内と外。
呑み込みと吐き出し。
僕は結構これにこだわっている。

自分にないものを探す。
足りないものを探す。
あれさえあれば。ああなっていさえすれば。
あれができるようになりさえすれば。
あれがわかるようになりさえすれば。
自分の人生もっと変わるのに。
という呑み込み。
それがないがために今自分は幸福ではないという。
現状を肯定できない理由を自分の欠陥に求める型。

それと
これさえなければ。
あんな出来事さえなければ。
こんな環境にさえいなければ。
という吐き出し。
自分には今自分を幸福にさせない余計なものがあるという。
こっちは肯定できない理由を自分の汚点に求める型。

前者は内に取り込む方向で、後者は外へ吐き出す方向。
だが、厳密に言えばどちらも「外に合わせる系」。
置かれている環境なり人生なりに対して、こちらが合わせていく方向。

そういえば、人生訓やことわざには矛盾するものが多い。
「あるがまま」とか「受け入れなさい」とか言ったり、
「諦めるな」とか「屈するな」とか言ったり。
スピリチュアル系とか宗教系ではわりと「抵抗するな」ということを言うか。
他力とか「おまかせ」とかもそう。己の意志で大いなるものの働きを阻害するなと。
これは外に合わせる系。

キャリア系の自己啓発ものだったら、「諦めなければ夢は叶う」とか言う。
「主体性を持て」「自立心を持て」「自分を譲るな」とか。
これは外を操作する系。
外のものに合わせるのではなくこちらが主体的に介入していく。

どちらが正しいのか。
どちらの言い分も正しく見える。
時に応じて、と言うのは結局何も言っていないのと同じだろう。

確かに、受けいれでいうと、
いつまでも現実を見ないでいるのはよくないように思える。
現実を引き受けねばならなくなるときもある。
だが、反対に負けを認めるのは妥協ではないかと思える場面もある。
簡単に諦めず頑張った方が得られるものが多いのでは、と。
やはり引き受けも大事だし、反発していくのも同じく大事だ。

僕もブログで両方書いている。
「なんでこんなに自分の感情を無視していたんだろう。
 もっと肩の力を抜いて受け入れればよかった」とか。
「好きなようにやられていた。主体性を手離してはいけない。
 もっと反発、奮発していかなくてはならない」とか。
一体引き受けるのか反発するのかどっちなのか。

でもこの種のどちらも正しいが相反する二つの人生訓も、
要は使い手次第なのだろう。
矛盾としか受け取れないならそれは力量不足ということになるのだろう。
この二つは実は同じことを言っている。

だいたい追い込まれているような状況にある人は、
「もっともっと、こんなものでは駄目だ。もっとちゃんとしなくては」
という外に合わせるモードになっていると思うが、
そういう人にも訪れるほっとする瞬間。
そのときの言葉は大体
「なんでこんなにがんばっていたのだろう。こんなに頑張る必要はなかった。
 自分は自分のままでよかったのだ。何を気にしていたのだろう。
 もっと自分を大切にするべきだった」といったところだ。
ちなみにそこに何らかの真理を見た人が「あるがまま」という言葉を流行させていく。

「もっともっと」と膨れ上がっていた自我が何らかのきっかけに出会うことによって
「ふぅー」という脱力と共にしぼんでいき、「元のサイズに戻る」。
呑み込み系で頑張ってきた人が「吐き出し」に転じたとき束の間の救済が訪れる。
そして不思議なことに、大体こういうときその人は、
現実を受け入れていると同時に、主体的でもあるのだ。
自分の意図やはからいを手離すことによって、かえって「自分」という意識が鮮明になってくる。
おそらく主体的であり、イキイキとした生命力のようなものが人間の性としてあって、
それが余計なものがなくなることによって目覚めてくるのだろう。
僕がたまにブログで書く「ちくしょう」とか「なめやがって」という言葉は、
現実を否定する言葉ではなく、現実を一旦吐き出して距離を置き、
現実からの「呑み込まれ」(主体性を奪われる)を回避した上での、
現実の受け入れなのだ。一旦距離を置くことによって精神が躍動する。
これでは説明になっていないだろうが、
現実を引き受けることと主体的であることとは矛盾しないのだ。

だが、吐き出しによって救われた人も、その救済期間が終了すると、
その人の語る「吐き出し」という言葉の内容は実は「呑み込み」に転じている。
「あるがまま」という名の現実否定。「自分らしく」という名の自分否定。
「あるがままであることによって私は救われるのだ」というしがみつきは、
紛れもなく「外に合わせる系」。また自分を偽り始めている。

なぜこんな文章を書いたかというと、昨日ふと、
「自分の内でもなければ外でもない。
 が、確かに自分の内にあり、また外にある。
 これは呼吸そのものだな」
と気付いたからだ。
内に取り込む(引き受ける)のが正しいのか、外へ出す(主体的である)のが正しいのか、
どちらが正しいのかと考えたときに、
これは丸っきり呼吸だなと気が付いた。
吸うだけでも吐くだけでもなく、両方揃って呼吸となる。
空気を吸って自分の身体を充実させるが、空気は自分ではない。
だが確かに自分の内にある。

人間とは呼吸する生き物だ。
というか、呼吸こそが人間のすべてではないかとさえ思った。
「どちらが正しいか」を求めると一つのことしか目に入らなくなり、
人間を点で捉えることになる。
が、人間は呼吸する生き物だ。点ではない。波だ。
その人間の捉えどころのなさ。実体のなさ。本体のなさ。
内にあって外にあって。生があって死があって。
空気が入って生き、空気が抜けて死ぬ。
無限から有限が生まれ、やがて無限へ還る。
生だけが人間ではない。波の中に人間がいる。
う~ん、どう説明していいかわからない。
というか何を言いたいか忘れてしまった・・・。

人間いかに生きるべきかと問うたとき、
禁欲・知足という発想もあるし、自由に好きなことをして生きるのがいいという発想もある。
これはどちらも正しい。
だがこれはどちらも正しいとわかる人にのみ有効なことであって、
どちらかしか見えない人にとってはまったく(と言っていいだろう)役に立たない。
この言葉の本来の重みを引き出すことはほとんどできない。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/29 23:00
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