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人間と呼吸

・ふと、自分は誰でもないと思うと気分が楽になる。
『○○○○』という名前を持った社会的存在ではなく、誰でもない。
そう思うと気持ちが晴れる。
それだけ「自分」というものに縛られているんだろう。
「自分はこういう人間だ」と。
罪悪感とか劣等感がどれだけ日常を息苦しくさせていることか。
しかもそれらはただの思いこみ。


・自分は誰でもなく、これまでしてきたこと、起こったことに何一つ間違いはなかった。
これから起こるどんな悲惨な未来も大したことではない。
うん、ちょっとした生命の躍動を感じる。
別にプラス思考で現実をごまかしているわけでも、これらが事実だというわけでもない。
ただ、イキイキしてくるとそういう風に思えてくる。
何なら、今ある現実がすべて願って得たものだと思ってもいい。
人間の値打ちはどれだけ現在を肯定できるかで決まるんじゃないだろうか。
現在を肯定できている人は幸せ者だ。
ただそんな人も次の瞬間には無常に押しつぶされて不幸になっているかもしれない。
そういう状況でも現在を肯定できるなら、
その人は単に幸せ者であるばかりでなく、「大した人物」だ。
その点で言えば、僕は人間として下の下だ。


・僕が自分を省みて、周りの人を断罪しているかどうかに気を配り、
自分の非を嘆くのと同じように、
周りの人によって自分が断罪されたからといって、
それはその人の責任であって、僕が気にすることではない。
なんだ、簡単なことなんだな。
自分の中に正しいものがあるのだから、わざわざ周りに合わせる必要はない。
人に批判されるのは嫌なものだ。批判されるのがわかると顔を伏せたくなる。
だが、批判する方が間違っているのだから別にそれに合わせる必要はない。
人より自分の方が正しいから威張っていいのではなく、
一個の生命であるから威張っていいのだ。
同じ理屈で他の人も威張って良い。
威張ってもいいのに中々威張れないのだが、それは僕の問題。
僕だけの問題。


・スピリチュアルブームや哲学、思想、道徳というものと、
宗教というものの違いが少しわかってきた気がする。
それはやはり以前から勘付いていたように、
宗教は「なぜそれをやるのか」と問う以前の問題なのだ。
とそんな気がする。
問うたら最後、救済はない。問うこと以外に苦しみはないからだ。
なぜプラス思考になるべきなのか。なぜ明るく生きるのか。
他にも様々な「こういう風にしなさい」「こう生きるのが正しい」などの
「生き方のススメ」があるだろうが、なぜそれをやるのか。
なぜと問える次元でそれらの言葉を使ったとしても、その人達はただの幸せ者にすぎない。
その人達が「よくできた人」に飛躍するか否か、それが宗教的な次元の話。

幸せ者はいつ不幸せ者に変わってもおかしくない。
変わったら、それはその人に過失があると断罪する。
では断罪された人に救済はないのか。
結局「本人次第」という言葉ほど宗教と縁遠いものはない。
その「本人」の次元で悩む人が宗教を欲するからだ。
宗教と言っても特定の教団に限った話ではない。
「自分はこう思う」というところに落ち着けず、
「絶対の正解」「誰がどう考えても誤りは見いだせないもの」なしには
安心できない人に「あなたはそう思うんだね」と言ったところで救いはない。
その人はあなたにも、別のあなたにも、その他のあなたにも、
「そうだ」と思って欲しいんだから。
そういう疑似宗教をやっている人に「お前は誰か」と問いかけるのが本当の宗教の次元。


・「集中」という言葉。
それは普通「一点集中」という意味で使われる。
色んなことに気をかけていると「注意散漫」と言われる。
だが、何にも集中しなくなるとどうなるか。「一点」を持たない集中とは。
かえってすべてのことに集中できるんじゃないか。
すべてのことに気を遣えている状態。それは何にも集中していない状態。
無であることによって全体を覆い尽くす、というまぁ僕のお気に入りの形。
「一点」を持つと、人は苦しむ。悪い意味で「人間になる」。

「一点」の世界では人は「なぜ生きるのか」と問う。
また「これ」という目標を持たねば生きるのが難しくなる。
「これ」のために生きるのだという、生きがいや
自分が存在していることには「こういう」意味があるのだ、
との実存の肯定手段を持たねば生きるのは難しくなってくる。
だがそれらは実は生の一点集中なのだ。「これ」にすがる。
「これ」を中心にあらゆるものの位置が決まる。
だが残念なことに決して崩れない「これ」などはないのだ。

人間は呼吸的存在なのではないかと最近思う。
点でもないが、動的でもない。
「動的」というとそれをどこかから眺めているようだから。
視「点」がない。そうするとあるのはただ吸って吐くという呼吸だけ。
ただ生きて死ぬ何者かの存在。
存在を存在(点)として捉えない観点。点から眺めない観点。

人は「点(対象物)」を手に入れることによって人になった。
が、無常であるところの点に絶対性を求めずにはいられず、
薄暗い迷路の中へ入り込んでしまったのもまた人間の性のゆえだった。
けれども、点を知ることの恩恵は大きく、
苦しみなく点を扱うことができれば、それは人間として最高の人生ではないか。
それこそ「できた人物」だろう。

苦しみや不幸といったものは現在を肯定できなくなったところにだけ存在する。
現在を「何かが上手くいっていない・どこか間違えている」と思い込み、
それを「点(ターゲット)」とすると、問題解決と称しながらの完全なる奴隷的受動生活が始まる。
「生きる」が始まる。「何かのために生きる」その「何か」が点。
が、本当は人間は生きてなどいないのだろう。
ただあるのは呼吸だけだ。点のない視点。
呼吸、呼吸といって何が言いたいかというと、
何も点を持つなということではなくて、点を使えということ。
吸う(生)のも点だし、吐く(死)のも点だ。
それをどちらかだけに決めてしまわないで両方掴む観点があるんじゃないかということ。
単なる「幸せ者」は点の奴隷だが、「できた人物」は点の主人だ。
この奴隷から主人への飛躍が宗教の次元だ。
哲学も道徳も、奴隷としてそれらに使われてしまったら良くて「幸せ者」しか生まれない。
が、主人としてそれらを使えるなら、この人類の遺産は大きなものとなる。
こういうとはっきりしそうだが、かえってぼやけそうな気もする。
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人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/06 14:11
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