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自分でも聞いたことのない本音

久しぶりの更新。

回想。
自分の信念を折ったことがある。
折らねばならなかった。
人間として、折る意外になかった。
それが最善の選択であり、あとは自分がそれを呑み込めるかどうかのみが問題だった。
呑み込めずに消化不良になるならそれは僕にそこまでの力量がなかったのだということ。
甘んじて報いは受けねばならない。
というか、呑み込んで消化すれば苦しまなくていいという話。

で、僕は未だに消化できずに心は折れたままなのだが、
今朝ふと思った。
別に折らなくても良かったのだと。
信念を折って生きるくらいなら死んでやると言って死んでも良かったのだ。
または、信念を貫き通すのが人間の道に背くと言うなら、
構わず背いて生きてやると開き直る自由もあったのだ。
それをもう答えは決まっていると最初から思い込んでいたのだ。
要は合わせていたのだ。
「人の道」とか「正しい選択」とか「世間体」に。
「生きねばならない」とかいう言葉に。
別に死ぬ自由もあったのだ。
でもそれは間違ったあり方だとして選択肢にも入れなかった。
別に周りの人のためにそれを選ばなかったのではない。
情によりやめたのではない。
情の入り込む隙間もないほど、「固定観念」に支配されていたのだ。
つまり、合わせていたのだ。言葉に。

僕はよく人を見ると内心で、信念とか言ってられる内はまだ幸せだなとか思ったりする。
まだ自分を信じていられるのだから。
その最後の砦も失ってしまったらどうなるか、おそらく想像もできないだろう、などと思ったりする。
信念など捨てるべきだ。そこからその人が本当に人として生きていく道が開かれるのだなどと。
でも、この辺のことは、自分が信念を捨てなければならないような体験をしたという
トラウマから来ている部分も大きいだろうと思う。

僕は信念を捨てた。
でも捨てなくても良かったのかもしれない。
信念とやらにしがみついて自ら死を選んでいても良かったのかもしれない。
でも本当のところ、捨てても捨てなくてもどちらでも良かったのだ。
本当に駄目なのは、「自分は信念を捨てた」という言葉に囚われ、未だに心が折れたままだということ。
心が折れるとはまっすぐ立てないということ。
完全に腰が抜けてしまっているのだ。
力が入らない。踏ん張りがきかない。
心に火が灯らない虚ろな存在。

なぜそれが駄目かというと、今僕がそれを嫌だと思ったからだ。
それ以外の理由はいらないし、あってもそれは不純なものとなる。
また人に合わせることになる。
信念を捨てるのも結構、心を折るのも結構、でもそれが嫌ならそれは「間違っている」。
自分の心を裏切り続けることは間違っている。
そういう癖をつけてしまっていることが間違っている。

改めて思いを巡らせる。
一体僕は何をしたいのだろう。
何を求めているのだろう。
何をしたくて生きているのだろう。
何を願いとして生きているのだろう。
それ以外のことなんてどうでもいいと言う権利を持っているのだ。
それが叶わないならいつ死んでもいいのだ。
そう言う権利を持っているのだ。

自分でも聞いたことのない自分の本音。
自分自身の内で問うていてはとうてい聞けない本音。
何かにぶつけずには決して聞けない本音。
それでいてぶつければ必ず逸れてしまう本音。
それを聞いてみたい。
「自分」を聞いてみたい。
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つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/12 22:58
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