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神社コワイ

神社について。
僕は一人で神社に行くのが怖い。行くのはいいけど、行くと怖くなる。
特に山奥の下界と切り離されたようなところにある神社は。

後ろめたいところがあるから。
堂々と太陽の下を歩けないような罪悪感が日頃からあって、
それが神社の前だとかなり強く現れてしまう。

自分なんかが神聖な場所に来て良いのだろうか。
もし何らかの神様的な存在がいらっしゃったとしたら、
僕なんかは一番に罰されてしまうのではないか。
そういう存在があるのかないのかはわからないけど、
もしあったとしたら、これは大変なことだ。

という風に。

神社に対してそういうモヤモヤがあったのだ。
でも、この間一人で神社に行ってみたら、そのモヤがちょっと取れてきたような気がした。

僕が恐れていたのは神という概念。頭の中にしかいない存在。僕の頭の中にしか。
存在というよりも概念。「机」、「椅子」という言葉と同じ。
ただの音であり、それそのものの中には神はおろか何の情報も含まれてはいない。
意味づけてるのは僕。
勝手に意味付けて、勝手に怯えてる。

「確かにそうかもしれない。でも、もしそうじゃなかったとしたら?
もし、その概念とは別に、神という存在があったとしたらどうする?
その神が神を侮るなと怒っていたとしたらどうする?」

こう言う声があるから今までモヤが晴れなかったのだ。
この声もただの音じゃないか。思考という音。

それはともかく。
神社というのは己の心をよく映してくれるんじゃないかな。
大体の人がピシッとしたくなるだろう。
多分、神社の本殿で本気で悪さをできる人はいない。
できるとすれば、それをしようと頑張ったからであって、「本心」はビビってる。
そのピシッとさせたりビビらせたりするのがいわば神社のパワーなのだ。
パワースポットっていう言葉もあるけど。
霊的なパワーとか神秘的なパワーとかそんなあるのかないのかよくわからない説明しなくても、
自分が神社に行って厳かな気持ちになったのなら、それがパワーなのだ。
(「神社」そのものにパワーはない。それもただの音に過ぎないのだから。)

ピシッとしたときに己の心がよく表れる。
僕が神社を恐れるのは、普段の罪悪感を「神社」に投影してるだけ。
投影して増幅させてるだけ。
そういう人間に対しては、そこにおわす神も「この馬鹿者が」とお怒りになるだろう。

でも、反対に神社に行くとあらゆるものに対する愛情と感謝の念を深める人もいる。
そういう人に対しては神は「よく来たね。加護を授けよう」と言って下さるだろう。

上手く説明できないけど、今までここのところがよくわかってなかったんだ。

これは「神」という音ではないのか?神はいるのかいないのか?
いると言えばいるし、いないと言えばいない。
いると思いたい人にはいるし、いないと思いたい人にはいない。
音に過ぎないし、幻だけれども、
「神」の幻を暴くにはまず「自分」の幻であることを暴かねばならない。

これはまた追々詳しくわかってくるだろう。
とりあえず、僕個人の話として、この間神社に行くことによって、
神社や神に対するモヤモヤが晴れた気がした。
これから晴れていくだろうという手応えを得た。
これを大事にしたい。
モヤモヤって自分の頭の中にしかないし、
減っていけばいくほど頭はすっきりするし、物事もクリアに見えるようになってくるから。

神を恐れる必要はない。少なくとも恐れるべき存在ではない。
神を恐れなくて大丈夫ならどんなものが来ても恐れる必要はなくなる。ましてや、人間など。
人はどんなものに相対しても、奴隷になるべきではない。
自分を奴隷にするような神のもとからは即刻立ち去るべきだ。
自由に伸び伸びと生きること。これに限る。
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世界観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/02/07 16:48
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