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生き損ない

2008年8月15日

『決して死は選んでいないけど、生も選んではいない。
 生きようと思っていないのに身体は生きている。

 死に損ないというより、生き損ない。

 身体はどんどん老化していくだろう。
 生を求めていないのだから、どんどん(身体は)終末へと向かう。

 僕には若さが足りない。
 だが、どうやって希望を持てばいい。
 今の僕には希望を持つのがいいことなのかもわからない。
 余裕がある「わからない」ではなくて、
 本当に「わからない」。』


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人生観 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2011/03/02 21:17
コメント
コメントありがとうございました
『ダムの決壊』からのリンクは、まだできていませんが、
まずは、『考えすぎ』からこちらのブログへリンクさせて頂きました。
時間の使い方が下手なもので、いろいろとお待たせしており申し訳ありません。
こちらのブログもゆっくりと拝読したいのですが、
社会人として目先の“消化しなければならないこと”がさばききれず、増える一方で、
“本当にやりたいこと”になかなかとりかかれない日々が続いております。
と言いつつも、こうしてタイミングが合えば自分の思いや考えを伝えることに没頭してしまう。
だから時間のやりくりがうまく行かないのかもしれませんが。
でも、こういうことでもないと、
“自分のやりたいこと”が永遠に後伸ばしになってしまいますよね。

余談が長くなりました。
「わからない」ということについて、僕も思うところがあります。
この「わからない」の残酷さは、なぜだか「わからない」ということだけはわかってしまう、というところにあるんですよね。
ある人は、「わからないと思い込んでいるだけじゃないの?」と言いますが、
「わからないと思い込んでいるだけだ」ということがわかればどんなに嬉しいか、と思うわけです。
僕も、世界がわかりません。

『世界音痴』という本をご存知でしょうか。
以前、Angelaさんという人と、この本をテーマにコラボレーション記事を書いたことがあります。
http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10009248982.html
岩岡さんのおっしゃる「わからない」とは軸がずれているかもしれませんが、
僕にとっても「わからない」は大問題です。
まこっちゃさんへ
お忙しい中コメント下さってありがとうございます。本の紹介までして下さって。今度読んでみようと思います。
リンクはブログの方だけで構いませんので。こちらのリンクも『考えすぎ』の方に変えた方が良ければまた言ってくださいね。

対談されてるんですね。驚きました。お二人に触発されて僕も色々考えましたので、それをダラダラと書いてみます。

対談を読ませて頂いて「当たり前」ということについて考えました。ここで言う「当たり前」というのは、例えば世間の常識であったり、法律であったり、倫理・道徳などのことですが、もっと極端な例で言うと、“明日も世界は存在する”とか、“明日も自分は存在する”ということもそうです。
これらのことはそれが「当たり前だ」と思うことができている間には問題はないですが、それが当たり前なんだと思おうとしても思えなくなったときにはとてつもない脅威となるものだと思います。上の例は極端なものですが、「当たり前だと信じて疑わない」ことによって救われているという事実は幾分かあると思います。

おそらく「社会」の成立の仕組みからして「当たり前のことがわからない人」が生きにくいと感じるのには避けられない面があると思います。
本当は世界というのは混沌としていて、とても言語だけでは表現できないものなんでしょうが、それに何とかまとまりを持たせて人間社会を成り立たせようとして、「規律」「常識」「倫理・道徳」「伝統・風習」ができてきたんだと思います。
本来無秩序な世界を半ば強引に人間が言語化して秩序を持たせている部分があると思うので、どこかに無理な部分が出て来るんだと思います。考えてみればこれだけたくさん人がいるのに全員で同じ方向を向くことなんてできなくて当然ですよね。「世界音痴」というのもそういう文脈で考えられるかもしれないなと思いました。
特に現代は「メイン」と「サブ」の境界があいまいになってきたり、絶対的に万民を縛るものがなくなって、民主的というか相対的になってきていると思いますので、「当たり前のものが当たり前でなくなってしまった」という事態がもはや個人の問題としてだけではなく社会問題としても考えた方がいいのでは、などと思ったりもしています。「昔」を知っているほど生きていませんので、時代について話すとどうしても観念的になってしまいますが。

それから、まこっちゃさんが世界音痴に対して手放しでは喜べないとおっしゃっていますが、同じ理由かはわかりせんが僕もそう思っています。
「世界音痴」を手放しで肯定しすぎると、人にもよりますが、自分の中に閉じこもってしまう危険があると思います。「他の人がいてもいなくても自分は自分だ」という考え方だったら、そのうちにきっと生きるのが空しくなってくると思います。
それよりも、まるで不意打ちのように自分の目の前に現れてくる色んな人や出来事の影響を受けて、「当初の予定とは大分外れたがこれがまぁ自分なんだな」と思える方が楽に生きて行けるような気がします。
また「世界音痴」にこだわりを持ちすぎると、「自分こそが正しいのにみんなはわかっていない」という考え方に流れていってしまう恐れがありますね。これは自分自身の反省からでてきたものですが(笑)
社会(というより世界)との折り合いの付け所は人それぞれだと思います。深く考え込んだ人こそが素晴しいのでもなく、そうかといってあまり考えずにすっと世界に溶け込んでいった人が真っ当なのでもなくて、人それぞれ自分なりの折り合いの付け所を試行錯誤していくのが生きるということなんじゃないかなと思っています。意識してそうしようとしなくてもみんな勝手にそうして生きていると思います。

僕も「世界音痴」の人間だと思いますが、この種の人間は自分だけの世界に安住していられるなら良いのかもしれませんが、現実社会に入っていこうとするとどうしても摩擦が大きくなって苦しいですね。やっぱり生きていく中で自分なりの落ち着き所や自分の生き方(扱い方)を見つけていくのが大事なのかなと思います。僕はまだ落ち着いていませんが。

以上書いたようなことに関連するものを以前に書きましたので、人に紹介できるような代物ではありませんが、よろしければお忙しくないときにでも見てください。
http://iwaokabaiki.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html

http://iwaokabaiki.blog15.fc2.com/blog-entry-25.html

どうぞまた気軽にコメントして下さいね。

変に虚飾するより
岩岡さんも、「世界音痴」を自覚されているんですね。
それにしても、穂村弘さんの「世界音痴」という名付けかた、すごいですよね。
最初は週刊誌の書評で見つけたんですが、
タイトルを見た瞬間に、僕の心の中でうまく言語化されなかったものが、この四字に集約されました。

今回、改めてAngelaさんとの対談を読み返してみました。
まず思ったのは、この対談をした頃に比べて、
今の自分の心のほうが凝り固まってしまっている、
ということでした。
社会人として必要なことであるとはいえ、
目先のことにとらわれすぎていた気がします。
岩岡さんのおかげで、
もう一度、自分の原点を振り返ってみることができました。

「忙しいから」と言って、
こういう話をすることを後回しにしていたら、
あっという間に一生が終わってしまいますね。
はっとさせられました。
・・・とは言え、時間には限りがありますから、
どうしても忙しくて出来ないときは出来ませんが。

これから、ご紹介頂いた記事、読ませて頂きます。

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