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完全に断ち切るからこそ

ちょっと矛盾しているように思えるが、
関係を完全に断つからこそ自由に他者に心を開くことができる
という事実があると思う。

ここでいう関係というのは役割のこと。

この人の前では自分はこういう自分であらねばならないとか、
この前いいことを言われたとか嫌なことを言われたとか、
そういう余計な考えを一切交えずに
今この瞬間の目の前の人と向き合う。

情も同じ。
完全に断ち切るからこそ
相手が真の『他者』となって自分の心の中に入ってくる。

過去の記憶に縛られて自身の自由を奪ったり
まだきていない未来を想定して身構えたりせずに
その場その場で目の前の人と向き合っていく。
それが本当の意味での一期一会じゃないかと思う。

そんな清々しい生き方ができたらどんなにいいかと思う。




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他者 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2011/04/27 21:13
コメント
同感ですが・・・。
気持ちの中での過去の遺物にとらわれない、
ということですね。
一期一会というのは、確かにまさにそのことだと思います。
そういう生き方は理想的だとも思います。

でも、並の人間にはなかなか難しいですよね。
あらゆる事柄について、常に、まるで初めて経験することであるかのように捉えていく、
ということは、「世界がバラバラになる」ということとほとんど同義である気がします。
たとえ世界がバラバラになっても、
それに徹することができれば本人的には問題なくなるとは思いますが、
そうやって世界から取り残されていく自分を感じてしまう心(もちろんこれも過去の遺物に囚われているからですが)が少しでもある人間にとっては、
この状態は非常に苦しいのではないでしょうか。

良し悪しは別として、
人間が、過去の記憶や、その記憶を記録したものの積み上げによって世界を獲得し、生きてきたのは事実ですし、
そこを拠り所としなければそもそも生きられない、という悲しい性質をそもそも人間は持っている気がします。

かめさんのおっしゃることには非常に共感しているんですが、どこか引っ掛かりを感じるんですよね・・・。
ガガガSPの「日暮らし」という歌があるんですが、
こんな歌詞が出てきます。

 酒を飲みながら、うんちくたれて、それで一生終えていくのもいいんじゃないか
 多分、その方が、人にも本当に、優しくなれるのかなと最近思う
 思い出は、人生にとって、多分一番大切な物なのさ
 思い出を捨てろと言うけど、本当に捨てられる時に多分死ぬ時なんだろう

もう一つ、こういうフレーズも出てきます。

 無くした物や、良き思い出に、あなたはなにを思い浮かべて暮らしていますか
 僕は君の顔を思い浮かべて一生暮らして行くでしょう

すみません。
また、かめさんがおっしゃりたいこととズレてしまっているかもしれませんが。
空っぽになるから
まこっちゃさんが感じておられるひっかかりというのは、なんとなくですがわかる気がします。

おそらく、
過去にとらわれないというのは高尚な生き方だとは思うけれども、
それが本当の幸せなのかはわからない、
というようなことではないでしょうか。

僕の考えている“理想の在り方”というのは、そういうものとはまた違うものです。
もし上に書いたものが“悟り”の定義だったとしたら、
僕はそんな悟りには魅力は感じません。
思い出や経験を大切にされるまこっちゃさんのお気持ちにも共感します。


もう数年前になりますが、この記事を書く元になった体験がありました。

大変子どもじみていて書くのは恐縮なんですが、
あるとき、親と仲違いをして「もう親子の縁を切ってやる」と思いながら夜道を歩いていました。
「家族のことは血の繋がった赤の他人と思おう、
甘えたいという気持ちを持つとこっちが傷つくことになる」などと
(恥ずかしながら)考えていました。

そんな人の世を恨むような感じで怒りに震えながら歩いていたんですが、
ふと目の前に2、3歳くらいの子どもとその両親が一緒に連れ立って歩いている光景が
目に入ってきました。
ごく普通の親子でごく普通の光景なんですが、
それを見た瞬間に、
「ああ、人間っていいな」と涙がこみ上げて来そうなほど感動しました。
つい、さっきまで人の世を恨んでいたくせに。

でも、それは気持ちが変わったからとか改心したからとかではないと思うんです。
怒りの感情がそのまま喜びに変わった感じです。
出所が同一の感情だと考えています。

そのときに気付いたことなんですが、
一旦人に対する情を捨てたからこそ
しがらみというか“関係の網の目”が解消されて、ゼロになって、
ゼロになると空っぽですから、
目の前に飛び込んでくるものが妙に愛おしく心の中に入ってくるようになるんだと思いました。
一種の性善説のようなものかもしれません。

ですから、ゼロの状態でさえあるなら、
他人であろうと家族であろうと、その人が真の『他者』として愛おしい存在と思えるのではないか、
とこの体験から思うようになりました。

まこっちゃさんがひっかかっておられるのは、
“ゼロになる”というのが、“過去を忘れてしまう”ことなのだと
考えてらっしゃるからだと推測しますが、
むしろ僕の中では、ゼロになるからこそ100が出てくるのだ、と思っています。
その100になるのを阻害しているのが、“しがらみ”だと思うんです。

ですから、過去の思い出を“しがらみ”とせずに“真の他者”として出会うことが僕の理想です。
やはり、ゼロに戻っても、思い出があるからこそ、
家族は全くの赤の他人とはまた違って愛おしく見えるものだと思います。


それからもう一つ、ゼロになると言っても、
別に常に瞑想していなければならないとかそういうことでもないと考えています。
これはまだはっきり考えがまとまっているわけではありませんが。

長々と好き勝手に書かせてもらいました。
ああ、わかりました
過去とか、経験とか、
現実に事実としてある自分のまわりのことは、むしろそのままに大切に直視しながら、
自分の心の内のほうの「しがらみ」を時々刻々断ち切って再スタートしていく、
ということですね。

やっとわかりましたが、
この辺の言い回し、難しいですね。
今、「過去とか経験は、現実や事実だ」という言い方をしましたが、
これは自分の心の内に投影されたものでもあるわけですから。
なんかこう、うまく使い分けられる言葉があるといいんですけどね。
心理学用語なんかではあるのかもしれませんが、学問用語は何かと先入観や固定観念に影響されやすいですから、
もっと平易な日本語でこの区別ができるといいんですが。

「過去」と「思い出」
「経験」と「記憶」
みたいな感じでしょうか。
でも、なんか言葉上でこう区別しただけでは、うまく伝わらない気がします。
ありがとうございます
たぶん、かめさんが書かれていたことが
心のどこかにずっと残っていて、
それが足がかりとなって、さっき頭の中で大事なことが繋がって言葉になりました。

言葉にしてみればたいしたことではないんですが、
忘れないうちに記事にしようと思います。
ありがとうございました。
こちらこそ
こちらこそありがとうございます。

僕もよくまこっちゃさんの記事に触発されて
記事を書いたりしていましたが、
こうやって改めて報告してもらうと嬉しいものですね。

また読ませていただきますね。

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